型のない人がやったら、それは形無し。」
これは、勘三郎が昔まだ勘九郎を名乗っていた19歳頃のこと。唐十郎の歌舞伎を見て感動し「俺もあのような歌舞伎がしたい」と、先代の勘三郎(父親)に言ったところ「百年早い。そんなことを考えてる間に百回稽古しろ」と言われたことがあったのだが、それは「古典をしっかり学んで自分の型をつくれ。未熟な者が土台も無いのに新しいことをやるな」という意味が込められていました。
パソコンの日本語ソフトで変換してみても、「かたやぶり」の「かた」は「型」しかありません。
また「かたなし」の「かた」は「形」しかありません。
型と形の違いが日本語の特徴の一つを表しているのではないかと思っています。
口に出した音としてはまったく同じ「かた」です。
いわゆる日本語の特徴であるたくさんある同音異義語の一つです。
しかも持っている意味が近いので書き文字としても、間違いやすい例によく出てきます。
まずは一般的な定義をそれぞれ見てみますと、
型=きまったやり方。伝統的なしきたり。ある物のかたちを作り出すためのもの。
形=物の姿や格好。形状。かたち。
ですね。
感覚的には 型>形 となると思います。
形は現実的なものです、実態があり目に見えるものです。
ですから、あるとかないとか言うわけですね。
型は精神的なもの、言い換えればそれぞれの道における定石とも言えると思います。
目に見えませんからあるとかないとかは言えません。
型は先達たちが果てしない試行錯誤の繰り返しの末にたどり着いた定石であり、私たちの目には形としてしか映りません。
型を学ぶということはその定石に至った過程を追体験することであって、今そこにある形を真似ることではありません。
したがって、型を破るということはその型に至った数々の失敗を追体験したうえで、その先にあるかわからないものに向かって更なる試行錯誤を繰り返すことではないでしょうか。
冒頭の勘三郎の言葉はそのことを言っているものと思います。
失敗体験の積み重ねによって導かれた型を、今見える形だけ真似ても見る人が見たらすぐわかるのでしょうね。
そういえば、そこに至った苦労をすることなしに、結果だけを真似て人前でしゃべっている人たちが薄っぺらく見えるのはそんなところに原因があるのかもしれないですね。
般若心経における「色」と通じるところがありますね。
色即是空 空即是色
この「型」と「形」の関係と似たような関係にあるものは、探すと結構あるのではないかと思います。
たとえば「河」と「川」、「樹」と「木」といったところでしょうか。
形も川も木も具体的なものを表す字・言葉ですね。
たぶん現実なものから作られた象形文字だと思います。
この辺の漢字のことは大変な先生方がたくさんいらっしゃいますし、定説もありますのであまり触れないようにします。
現実的なものを文字にしたことのほうが精神的なものを文字にするより早かったと思われますので、型、河、樹よりも形、川、木のほうが先にあったと思われます。
漢字の部首の少ないシンプルな文字ほど現実的なものを表していることが多いように感じます。
また、いろんな部首を持つ字は、そこに元の意味がある抽象的なものを表していることが多いように思います。
まずはしっかりと現実の形を見極めて、そこに至った試行錯誤を想像してその先の創造へ向かっていきたいですね。
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