2013年10月4日金曜日

言語習得の段階とその環境(3)

さて、今回は学習言語の習得をほぼ完了した10歳を超えてからの段階です。
聞くこと・話すことの習得段階です。



しかし、10歳以降の段階に対応する聞くこと・話すことに関するカリキュラムが学校教育にはほとんど存在しないといえるのです。

10歳までの学習言語の習得については、ほぼ理想的なカリキュラムを持っているだけに極端に聞こえるかもしれませんが、これが現実です。

ところが、国語科の学習指導要領には全学年を通して「話すこと・聞くこと」が一番に挙げられています。
でも実際はどうでしょうか。

小学校はおろか、大学を卒業した者が会社に就職したあとで、社内でのコミュニケーションが取れないためにうつ病や新うつ病になる者がいつまでたっても減りません。
つまりは、中学校、高校、大学を通して聞くこと・話すことが身に着いていないのです。

 


言語は思考のための唯一の道具であり、コミュニケーションの道具です。

道具を持ったのはいいのですが、その道具の使い方は身に着いていないことになります。
道具を持てば使いたくなるのが人情です。
使い方がわからなくとも、手探りで使い始めるのが人間です。

拳銃を持った者は、使い方がわからなくとも撃ってみたくなるのが当たり前です。
拳銃は飾るものではなく撃つものだからです。

10歳頃までに基礎的とはいえ完成された言語を持った子供たちは、当然それを使いだすようになります。

思考に使っているうちは自分の頭の中だけですので、人に迷惑をかけることはありません。
ところが聞くこと・話すことを身につけずに言語を使うことは、使い方をわからずに銃を撃つことと同じことになります。
ましてや、
10歳を過ぎるころはいわゆる思春期として感情が不安定で揺れ動いている時期と重なります。



先生や大人では感じ取れない言語による暴力が、意識されずに行われている可能性が非常に高いのです。
小学校高学年から中学生に「いじめ」が散見され出すのは、このようなことも原因になっていると思われます。


イギリスの小学校では低学年から、自分の意見を主張し人に話すことを学びます。
彼らの文化では、話さないことは知らないこと、わかっていないことと同じことになります。

つまりは、自分から話すことができない人間は能力がないと受け取られるのです。

分かっている、理解しているのであれば、理解しているということを言葉で表現しなければ、理解できないバカだと思われるのです。


日本人に慣れていない彼らが日本人の前で話をすると、皆同じ感覚を持つそうです。
それは、こいつらバカなんじゃないのかという感覚だそうです。

発言が禁じられている場面ならばともかく、そうでない場面で黙って聞いている日本人には、理解するつもりがなない、理解できない人と思うようです。

アメリカでも小学校の速い段階から、人に対して話すことや、大勢の人前で話すことを学ぶそうです。
それをベースにディベートが話すことの中心的な教育となっていきます。


もっとも、日本語の複雑さに比べれば、彼らの言語は6歳前後にはほぼ完全に習得することができます。
小学校の早い段階から、自分の考えや思いを表現することを学ぶことができるのは、言語そのものが持つ習得のための難易度も関係あるようですね。


翻って日本では、学校教育の中での自分の考えや思いを人前で話したり、テーマに基づいて意見を出し合ったりする機会がきわめて少ないと思われます。

学校においてもクラスの枠を超えたコミュニケーションもない場合もあり、固定的なきわめて閉鎖的な人間関係の中で、あまり説明や主張を必要としない世界で生活をしています。


日本の学校教育の中で、自分の考えや意見を述べる機会は作文くらいです。

子供たちは書くことでしか、本音を語れないようになっている場合があります。
小学校高学年から中学生の間で交換日記が流行ったことがあります。
今でも行われているかもしれません。
なぜ、同じことが話し言葉でできないのでしょうか。


特に小学校高学年は、子供の発育段階から見ても、今までこもっていた守られていた環境から自己主張を始める時期です。
コントロールできない自己主張に、個人差などが加わった環境では、感受性が身に着き始めて心に鎧を持たない子供たちには厳しいものとなります。

その中での自分の心を守りながらでの表現方法が、交換日記という形を生み出したのかもしれませんね。


クラブ活動が重視されているのは、学年・年齢を越えての関係の中でコミュニケーションを取らなければいけないからです。

社会に出れば何十年という年齢差で、育った環境の全く違う、価値観の全く違う人たちとの中で生きていかなければなりません。
様々なコミュニケーションの仕方を身につけていなければ生きていけないのです。

それなのに、小学校の高学年以降大学を卒業するまでは、きわめて狭い社会の中で同じような価値観を植え付けられた人同士の関係の中で生きてきています。
自分から積極的にコミュニケーションを取らなくとも、考えていることや行動パターンはほとんど分かっている関係です。

クラス替えや進学の新クラスの時に、早期になじめない子供が増えており「いじめ」の対象になりやすいと言われています。
そんな子たちが社会に出ていって、まともなコミュニケーションが取れるでしょうか。

それを指導すべき先生たちは、社会経験がありません。
先生たちの社会経験は一般社会よりもはるかに閉鎖的な学校だけとなってしまっています。
知らないのですから指導ができるわけがありません。

このことは大学まで全く同じと言えるでしょう。
一部の学校では社会経験のある先生を採用したりしていますが、その数はとても子供たちに影響を与えられる数とは言えません。


民間の学童教育機関があります。
放課後に学童を預かったり、学校の休日に活動したりしている事業です。

そこでの中心的な活動は例外なく学年の枠を取り払った異年齢合同の共同活動です。
低年齢の子供はお兄さんお姉さんの行動や発言を見て、やり方や秩序を学びます。
高年齢の子供は小さな子たちの面倒を見ながら、待つことや個人の欲求を抑えることを学びます。

そこでは人の話を聞かないと一緒に活動ができません。
そこではみんなの前で自分の意見を述べる機会を作ります。

いま注目されている事業の一つですね。


子供たちに聞くこと・話すことをきちんと身につけてもらうためには、場を設ければいいだけです。
極めて簡単なことですが、現状ではその場をコントロールできる先生がいないのも現実なんでしょうね。

一番習得するのにふさわしい時期に、場を設けさえすれば子供たちは自然と身につけていくのです。

小学校高学年から中学校の間に、聞くこと・話すことの実践を積み重ねることこそ、自立して社会に出ていける本当の力をつけることではないでしょうか。