2013年11月2日土曜日

アウトプットの苦手な日本人

欧米のインプットー思考ーアウトプット型の論理的な言語教育に比べると、日本語の言語教育は文字の複雑さのために、道具としての知識を身につける時間がより多く必要なことがわかってきました。

欧米型のインプット(聞くこと、読むこと)-思考ーアウトプット(話すこと、書くこと)は、話し言葉(口語)と書き言葉(文字、文語)が一種類しかない場合にはうまく機能します。
当然、
口語を先に身につけますが、対応する文字は一種類ですので、それほどの時間差を持たずに文字を習得することができます。

道具としての言語が小学校の低学年において習得されますので、その後は言語技術としてのインプットからアウトプットへの流れを学習していくことに専念できます。
教育のレベルによって文字に触れる機会が変化しますが、小学校の中学年以降は言語そのものの習得よりも、言語技術の習得が中心になっていきます。



これに対して日本語の言語教育は、文字を覚えることが中心となります。

話し言葉としての「ひらがな」に対しての書き言葉「ひらがな」は、基本の音や文字数が少ないために世界でも習得しやすい言語の一つとなっています。

ところがこの上に、カタカナ、漢字、アルファベットを習得しなければいけません。
他の教科を学ぶための学習言語としての習得のためだけでも、小学校中学年の10歳くらいまでかかります。

その後も、習得度の確認として行われるテストや、入学試験は文の読解と漢字の書き取りが中心となります。
話すことや書くことによるアウトプットはごく一部の作文程度で、技術的なアウトプットを学ぶ機会はほとんどありません。 

これは日本人が外国の先進文化を導入してきた方法にも大きく影響されていることだと思われます。
日本人が外国の文化を導入する方法は、書物によるものであり、その書物を読んで理解することが中心でした。

漢語で書かれた書物を理解するためにカタカナを生み出しながら、漢字を使いこなすようになりました。
ヨーロッパ文明を漢字で翻訳しながらも、カタカナで表記したり、アルファベットを用いたりしながら書物を理解していきました。

日本人の学習方法の基本は読み書きなのです。
これがそのまま言語教育に影響を及ぼしていると思われます。


しかも、書くことは行為としてはアウトプットであったとしても、自分がその書物の内容を理解するために行われることがほとんどであり、外に対しての情報発信としては考えられていなかったと思われます。

外に対しての行為としての書くことは少しずつですが蓄積されていきますが、大きく発信され始めるのは、庶民文学が広がる江戸後期だと思われます。
明治になると新しい文化を紹介する物を含めて、かなりの書物が読まれること目的として発信されることになります。

しかし、書物として発信する行為は特殊な能力を持った行為として、一般的な教育の対象とはなりませんでした。
書くことは理解するための自己学習の行為として定着していきました。


アウトプットとしての話すことの機会も、学校教育の中ではほとんどありません。
低学年を中心とした斉読の授業も高学年ではほとんど行われません。
手を挙げて自ら発言の機会を求めない限りは、発言することなしに一日過ごす学校生活もありうるのです。

日本人はアウトプットのための教育をほとんど受けていないんですね。
学校教育のほとんどはインプットばかりです。
大きな場面でのアウトプットの経験は、新しい力を身につけることができますね。
社会で生き抜いて行くためのチカラはここにあるのでしょう。



SNSの普及によって一般個人が発信できる環境が増えてきています。
ところが日本人は、個人レベルの発信に慣れていませんので、いまだにこの情報の扱い方に戸惑
っています。

それぞれのSNSに特徴があるのですが、それに応じた使い方にはなっていないようです。
アメリカと日本ではFacebookの使い方はかなり異なっているようです。
今の日本は、個人レベルのアウトプットの過渡期にあるのではないでしょうか。

個人としても気軽にアウトプットできるメディアが増えてきました。
メール一本打つのにもドキドキしていた我々の時代とは変貌しています。
電話よりもさらに気軽に個人的なアウトプットが可能な環境となっています。
画像を使うことによって、むかしの日記をつけることよりも簡単にできるのではないでしょうか。

いつまでも苦手とは言っていられませんね。
手探りで発信しながらも、自分としての目的別のメディアを持っていなければいけなくなると思います。

メディアが充実してくると、そこで発信する内容が問われてきます。
今のうちにいろいろなメディアに発信できるコンテンツを身につけておきたいですね。