2013年11月27日水曜日

幼児英才教育が無駄なわけ

幼児期の記憶がほとんどの残らないわけが少しずつ分かってきました。
むかしから幼児期の記憶が残らないことは知れ渡っていたようで、物心がつくころなどという表現もありますね。

少し前までは、記憶するための言葉を持っていないために記憶として残らないと言われていました。
これはでは使える言葉がだんだん増えてきている5歳以降の記憶までがほとんどないことへの説明がつきませんでした。

言語がないと記憶できないどころか、認識すらできないことは分かってきています。
思考そのものが言語によってなされていることもわかってきています。
その言語がなければ記憶がないし、仮にあったとしても表現するための言語もないので、記憶がないのと同じことになります。


しかし、幼児であっても4歳頃になればかなりの数の言葉を持っていますし、意志の疎通もできるようになっています。
言語だけの問題であるならば、断片的であってもこの頃の記憶はあってもいいはずです。


私は、幼稚園から9歳頃までオルガン・ピアノを習っていたそうです。
先生の所へ通ったことはうっすらと覚えています。
バイエルンンも何冊かやって、楽譜を見ただけでピアノが弾けたそうです。

残念ながら習ったということ自体はうっすらと記憶にありますが、今では楽譜は全く読めませんしピアノも全く弾くことができません。
音楽についての知識や経験で記憶に残っているものは、小学校の高学年以降に学校で習ったことの一部です。

なぜか、小学校の5年生の時に、6年生の卒業式のために鼓笛隊で小太鼓を叩いています。
この時も譜面が全く読めなかったことを記憶しています。



自分に置き換えてみても10歳以下の記憶はほとんどありません。
断片的に残っているものは、それこそ物心ついてから写真などで確認したことによって残った記憶ではないかと思います。

小学校2年の通信簿では、授業中のおしゃべりが多く落ち着きがないと書かれていますので、言葉はそれなりに持っていたと思われます。
それでも、小学校2年生の時の記憶はほとんどありません。

どうやら言語の習得からだけでは幼児期の記憶がないことの説明は難しいようです。


調べてみると2つの説があるようです。
簡単に言ってしまうと、1つは幼児期は脳の発達段階で記憶するという機能がまだ出来上がっていないとするものです。
もう一つはそれに加えて幼児期は急速な脳の発達段階で、激しい細胞の新陳代謝によってどんどん新しい細胞に置き換えられていくために、記憶されたものでも次々と新しいものに変わってしまって消えていっているということです。

音に対する反応で記憶の保持期間を調べた結果があります。
3歳で約1週間、6歳で2週間を少し切る程度の最長保持期間の結果があるようです。
これも不快な音についての実験ですので、言語についてのことが同様かどうかは分かりません。



嫌な音として体に染み込んだ音に対しての記憶残存が上記の期間とすれば、他に何の刺激もなく流れていくことの記憶の保持はほとんどないと言っていいのでしょうね。
大きくなってからでも、自分で覚えようとして取り組んだことでなければ、その場で消えていきますものね。

さらに、自分自身の記憶(エピソード記憶というそうです)としての発達はさらに遅くて、4歳くらいから機能すると言われています。
ほとんどの記憶は自己の体験と結びついていますので、幼児期の記憶がないのは当然ですね。


幼児期の英才教育はほとんど記憶に残らないのですね。
ましてや、言語が不十分ですので、思考することはほとんどできません。
そのままを記憶したところで、思考の役には立たないわけですね。

ましてや、自分で覚えようとする意志はありませんので、まず記憶に残ることはありません。

幼児の感覚は五感の中で聴覚が一番先に発達するようです。
次が触覚、いわゆる肌感覚ですね。

言葉としての理解はできなくとも、その音を聞いたときの感覚が気持ちいいかどうかはかなり早い段階から感じているようです。

母親の子守唄を聞きながら安心して寝ていくのは、子守唄と触れている母親の安心感が結びついているもののようです。

表現は悪いかもしれませんが、パブロフのイヌ状態ですね。
常に母親の安定した振動を感じられる子守唄を聞かされていれば、そのうち子守唄だけで安心して寝てしまうようになりますね。

幼児期の英才教育は耳から入れるものがほとんどです。
同じことを、前の記憶が残っているうちに何度でも繰り返すわけですね。
そのこと自体は残っていくかもしれませんが、どこかで1週間も止めてしまえばすべて消えてしまうわけです。

普段の生活で毎日行うことでないと、身につかないということですね。



言葉が増えていく過程は、脳の発達とリンクしています。
いったん言葉を発し始めると、その記憶が消えないうちにどんどん使うようになります。
使っている言葉を含めて新しい言葉がどんどん上書きされていきます。

そして、その言葉と結びついた感覚が一緒に記憶されていくのですね。
その感覚は母親の感覚そのものです。
母親がそれまでの人生で培ってきた言葉がその言葉を使う感覚とともに伝承されていくのですね。

幼児期にどんな教育をしても、どんな躾けをしても毎日同じように繰り返すことは不可能ですね。
しかも、本人は記憶する意志などありませんから、よほど心地よいことと一緒にやらないと記憶に残りません。
そんなことが毎日できるわけもありません。

かつては、この心地よい環境を人工的に作って英才教育がなされたことがありました。
10歳を過ぎたころに1か月もそのことを意識的に遠ざけたら、きれいに忘れてしまったようです。
何かをやった、やらされたことだけは覚えていたようです。


自分でしっかりした思考ができるように、毎日使う言葉を楽しみながら一緒に増やしていけたらいいですね。