2014年3月28日金曜日

幼児期に英語を教え込む危険(2)

昨日のブログ、「幼児期に英語を教え込む危険」に対しての反応の多さに思わずびっくりしてしまいました。

自分が何かに取り組んで知識を得てくると、周りの人に対しても「この程度は分かっているだろう。」と思うハードルが上がってきてしまっていることを改めて感じました。

全く勘違いして、海外に赴任している家族がうらやましいなどというコメントもありましたので、もう一度分り易く触れておきたいと思います。



このことを理解していただくには、幼児に習得する幼児期専用の「ことば」について知っていただかなければなりません。

この時に習得する「ことば」がその人の生涯の基本言語となります。

脳や発声・聴覚など人としての知的活動のための機能が、この「ことば」を使うために最適なように形作られていきます。

この「ことば」が日本語の場合は、日本語を聞き、日本語を話し、日本語で思考するために機能が整えられていくのです。

この基本機能が出来上がるのが、生まれてから4歳頃までかかるものとされています。

環境による個人差がありますので、5歳頃には出来上がっていると思ったら間違いないと思います。


生まれてきた子どもは、この「ことば」を習得する間は、自然に母親からすべての感覚を使って言語感覚を受け継ぐようにできています。

幼児期の最大の目的は、母親から受け継いだこの「ことば」によって、これから先を生きていくためのことを学ぶための基本言語感覚を身につけることにあります。

その言語を最大限使いこなせるようになるために、あらゆる知的活動のための器官が機能を整えていくことになります。


この「ことば」のことを「母語」(ぼご)と呼んでいます。

人としての原型をなす言語であり、母より伝えられる言語だからでしょうかとても良い名称だと思います。

英語では mother tongue(マザー・タング:母の舌)と言われますが、母国語に対しても同じ言い方をされます。

ニュアンスとしては「母語」の方に使われることが多いと思われます。

母語は言語としては日本語や英語などの区別がありますが、母親から伝えられるものですので、厳密には一人ずつ異なったものとなっています。


この「母語」についていろいろなことがわかってきました。

「母語」についてはここまでわかってきた「母語」で確認していただきたいと思いますが、特に幼児期の母語習得段階に英語を教え込むとどうなるかについて述べておきたいと思います。
(参照:ここまでわかってきた「母語」


まずは、母語として子どもに英語を身に付けさせることは可能です。

その場合の理想的な環境は、両親および子育ての周りの言語環境が英語を母語として使っている人たちであることです。

子どもの言語習得の基本は母親からしかできません。

特に幼児期の肉体的発達が進んで他者との交わりができるまでは、母親からしか学ぶことができません。

子どもの母語を英語とする場合は、両親を含めて周りの環境すべてが英語である必要があります。


特に母親が母語としての英語話者でない場合で、子どもの母語を英語にしたい場合は、母親を子どもから遠ざける必要があります。

母親の代わりに英語の母語話者によって幼児期を育てる必要があるのです。

あるいは、母親が英語のみで子育てをする必要があるのです。

その場合の子どもの英語は、母親の英語であってそれが限界です。

子どもの母語は母親が持っている言語以上のものにはなりません、母親の言語が子どもが受け継ぐ母語の限界なのです。


両親あるいは母親の母語と異なる母語を子どもに身につけさせようとすることは、母親が子供と触れる時間が極端に減ることになります。

また、そうしないと子どもの母語がおかしな言語になります。

母親の母語が日本語で、子どもに身につけさせたい母語が英語だとしましょう。

普段は英語話者に子供の面倒を見させないと、母語としての英語は身に付きません。

しかし時々母親が子供に接触することになる時は、日本語で接触してしまうとどうなるでしょう。


子どもは母親を見分ける能力を生まれながらに持っていますので、はるかに接触時間が短くとも母親との接触によるインパクトは絶大です。

子どもは言語の区別などつきませんので、受け止める「ことば」をすべて含めて一種類の言語として受け入れます。

英語と日本語のごちゃ混ぜになったものを一つの言語として、母語として身につけてしまいます。

英語でもなければ日本語でもありません。

世の中にない言語を身にけ、それぞれの単独の母語話者とは異なった言語感覚を身につけてしまいます。

幼児期の母語習得期に母親の持っている母語以外の言語を教え込むことは、こういうことを意味するのです。


英語話者の環境の中でも、日本語話者の環境の中でも周りと異なった言語感覚を持つことになり、とんでもない苦痛を味わうことになります。

母親が日本語話者で、幼児期に海外の英語環境で育ったあとで日本の小学校に入った友人の話は昨日のブログで書きました通りです。

本人は精神障害ではないかと長い間、苦しんだそうです。



母語は書き換えができません、一度身につけた母語は生涯を支配します。

子どもは自分で母語が選択できません。

普通に日本で、日本語を母語とする両親のもとで育っていても、英語をはじめとする外国語に触れる機会は増えてしまっています。

母語として持っている日本語は、一人ひとり異なっています。

母親の日本語がひとりひとり異なるのですから当たり前のことです。

しかし、日本語としての言語感覚は共通なものが大部分を占めていますので、学習言語としての「国語」を学び身につけることにおいては大きな問題は出ていません。


日本語の言語感覚と英語の言語感覚は大きく異なります。

知的活動のための各器官の機能の使い方が大きく異なります。

さらに言語としての大きさ(歴史、語彙、表現力など)が全く違います、日本語の方がはるかに大きな言語です。

母語として英語を身につけている人は、生涯かかっても日本語を使いこなすことはできません。

日本語を母語として持っている人は、今わかっている限りの他の言語はいつからでも使いこなせることができると言われています。


子どもが自分で母語を選択することができない以上、その母語を選択するのは親の責任です。

そしてその母語をきちんと身につけさせてあげるのも親の責任です。

子どもは半本能的に勝手に言語を身につけていきます。

大切なのはきちんとした母語を身につけることができるような環境つくりです。

無理やり教え込むことは逆効果です。

自然な習得に任せながらも、おかしなものが混ざらない環境を整えてあげることです。


親の日本語そのものがおかしくなっています。

子どもの母語は母親以上のものには絶対になりません。

母親になる前に、きちんとした日本語感覚を身につけておくことが、子どもに最高の生きるためのチカラを授けることになります。

子どもの母語を日本語にするのであれば、幼児期に他の言語を教え込むことは絶対にタブーです。

それでなくとも単語としての外来語は自然と母親から伝わってしまうのです。

単語としての外来語は、日本語の言語感覚を変えるものではありません、日本語の言語感覚のなかで使われているものです。



幼児期に会話としての他の言語に触れることが、母語の習得に影響を与え、母語としての日本語の感覚をおかしくします。

私たちから見ると、今の若いお母さんたちの日本語感覚はとても日本語とは言えないものとなっていますが、それでも日本語です。

少なくとも日本語である限りはその感覚を母語として継承できれば、古代日本語も国語もわかるようになります。


母語が日本語感覚から離れてしまうことが一番恐ろしいことです。

それによって、世界のどこにもない言語感覚になってしまい、生涯苦労することになってしまいます。

英語なんかは必要な時にいつからでも身につけることができるものです。

そのための方法は山ほどあります。

英語も言葉ですから日々変化しています。

私たちが中学や高校で習って身につけた英語は、今やほとんど役に立ちません。

一応の意味は通じますが、その言語感覚はかえって相手を迷わせ戸惑わせることになります。


幼児期に子どもに英語を学ばせることは、親のエゴ、自己満足以外の何物でもありません。

もっと極端にいってしまうと、自らの育児放棄とも言えるでしょう。


日本語がおかしくなってきているのは教育のせいでも何でもありません。

母親の日本語感覚がおかしくなったからだけです。

正しい日本語なんかありません、言葉は日々変化していますので正しいものなんか決めることはできません。

時代によって一番多くの人が理解している内容を標準的なものとするだけです。


子どもを持つ前のお母さん予備軍の方たちに、昔ながらの日本語が持つ感覚を伝えられる場があるといいですね。

2000年以上前の文字のなかった時代の言葉を継承し続ける日本語は、世界においてもきわめて特殊な位置にあり注目をされています。

他の言語と比べても比べようがないとても貴重な存在となっています。

日本語を母語として持つ誇りと自信をもっと表現できる様になりたいですね。