2014年5月5日月曜日

「あいまいさ」の素晴らしさ

日本語の表現は曖昧であるという指摘を受けることがあります。

ほとんどの場合は、日本語をよく知らない人の意見です。

日本語について研究しているや 日本語に詳しい人は、反対に日本語はとても表現力が豊かな言語だと言います。

ただし、表現力が豊かなことと曖昧ではないことが直接結びつくためには、ある種の条件が必要になってきます。

それは、持っている豊かな表現力が、場面において適切に表現されていることです。

その場面に適した表現がなされていなければ、言語自体がどんなに豊かな表現力を持っていたとしても、曖昧さが残ることがあります。



日本語の表現の曖昧さは、結局は言語そのもののではなくて、使っている人のものだとなってくるのです。

顔なじみではない外国人と日本人が話しをすると、遠慮のある日本人の話題が抽象的なものや漠然としたものが多くなって、個人的な話題が少ないことからこのように言われることが多いようです。

不慣れな環境における彼我の位置づけは、文化伝統的に使用言語によって異なっているようです。


特に日本語の場合は、世界でもどの系統にも属さない言語として、文化伝統においても独特のものがあります。

彼我の関係においても、それがよく表れています。

日本人の感覚では、彼我の関係はまずは同調性の発見から入ります。

お互いが仲間であることが確認できる、共通して所属している組織はどこかないかというところです。

国、地域、都市、業界、企業、学校、など自分が今まで関わったことのある部分ととの共通の接点を探して、仲間意識を持とうとします。

同調性が基本にありますので、初めから敵対視することはありません。

よほどのことがない限り、自分から敵視することもありません。

表現としては、彼我の関係において「どの程度味方か」を確認していく活動と言えると思います。



この「どの程度味方か」が個人やジャンルによって、同じ人でも異なることになります。

この辺が、曖昧さと思われるところではないでしょうか。


彼我の対比を明確にして、人と違うことに価値を見出す彼らにとっては、相手に同調するということ自体が一種の自己存在否定にもなりかねない行為になります。

同様の意見であったとしても、違うところを探し、自分の意見として主張表現する彼らから見ると、日本人はハッキリしないということになるのだと思います。


日本人の持つ豊かさ(敢えて曖昧さとは言いません)は、彼らの二元的な彼我の関係をも取り込んでしまっているものなのです。

どちらがいいとか悪いとかではなく、特徴ですので、場面によっては長所として出ることもあれば、短所として出ることもあります。

それがわかった上で、対応すればいいだけのことです。


彼らから見たら、日本人の感覚はわかりにくいと思います。

なぜなら、彼らの感覚にはないことだからです。

しかし、日本人から見ると、彼らの感覚も理解することができます。

それは、日本人の感覚の中にも含まれていることだからです。


このような感覚も母語を通して、母親からちゃんと伝承されていっているのですね。

お母さんもこんな感覚のことまで意識しことはないと思います。

言語が伝承されていくということは凄いことですね。





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