2014年7月5日土曜日

英語を学ぶことの功罪

概して欧米人は物事を「〇である」か「〇でない」というように二者択一的な捉え方をします。

これは、古代ギリシャ・ローマ時代よりのアリストテレス的な論理を基礎としているからです。

この考え方は、対立的な考え方を中心とした二極的な二元論となっており、その間の中律的な要素を排除したものです。

そのために、「〇か、〇でない」ものしか認めないことになります。

つまりは、中間にあるものを対象としないということになります。


アルファベットの起源はエジプトやメソポタミアに見ることができますが、それが言語としての中心となったのはギリシャ・ローマ時代です。

文字としての基本形や文法が定まってきたのがこのころだと言われています。

そのために、アルファベットを表記文字として持つ言語は、すべてがギリシャ・ローマの影響を大きく受けています。

英語もその典型の言語です。


英語の基本構造は「主語+述語」です。

「A is B.」という文章で見てみましょう。

この場合のbe動詞は linking verb と呼ばれるAとBをリンクさせるものとして使われており、「A=B」という意味を表しています。

「This country is Japan.」は「This country = Japan」となります。


西洋の人たちはこの原則に立って物事を語ります。

そしてこの考え方は紀元前350年ころから19世紀にいたるまで、場所によっては現代においても続いているのです。


日本語では、話をしている中で「脱線」することがよく起こります。

その「脱線」が一番参考になったということすらあります。

英語では、「脱線」は極端に嫌われます。

書くことにおいては勿論のことですが、話すことにおいても主旨から遠い話を混ぜることを嫌う傾向があります。


対して、東洋では多元論的な思考となっています。

思想や思考としての強制の歴史の極めて少ない日本においては、精神的な主柱であるはずの宗教においても沢山の神や仏が存在し、あるいは宗教が主柱になっていない場合も決して少なくありません。

人や外国による攻撃や侵略によって感じる命の危険よりも、自然との向き合いによる命の危険の方が大きかったことがうかがえます。


同じ東洋であっても、侵略と謀略と皆殺しの歴史を歩んできた中国とは大きく異なるところです。

したがって、中国においては「人」に対する分析が大きな力を持ち、過去の英雄偉人の分析や戦術謀略の実績が研究の対象となりました。


日本においては変化の大きい季節とどう向き合っていくかが最大の課題であり、戦であろうと政治であろうとすべてが自然の移ろいによって影響されてきています。

東洋の中でも日本は四季という明確な季節の変化と、その移りゆく変化が日々起こっているところです。

冬と夏という大きな変化を待っていたのでは、対応できないのです。

日々のささやかな変化を感じながら対応していく必要があったのです。


結果として、日本語の持っている特徴は英語とは全く対照的なものとなります。

二元論的な両極に対する意識はほとんどないといってもいいくらいです。

その代り、二極の中間にある領域に意識が向けられており、そこには無限の領域があることが基本となっています。

その領域を表現するためには、様々な表現方法や言葉を生み出し、微妙な変化を意識する感覚となっています。


その変化においても、地域や人が変わればあるいは携わっている生業が変われば感じ方や対応が変わっていくものであることを感覚としてわかっています。

英語における表現のように、唯一の宗教的基盤を持つ不変の原理原則がたくさんある言語とは大きく異なっているところです。

神という観点から言えば、あらゆる自然現象において神の存在を意識しているのが日本であるということができます。

そこには西洋のように人としての理想形としての神ではなく、自然の変化をつかさどる存在として人知の及ばぬところの概念として神を置いていることになります。


言語は文化そのものです。

文化を具体的にしたものが言語です。

文化的な背景を持たずして言語を使いこなすことはできません。

単なるコミュニケーションの道具としての言語は、その言語を母語とする人との間では必ず文化的なギャップを引き起こします。


幸いにして、日本語はその表現の豊かさにおいて、他の並ぶものがない言語となっています。

他の言語の持つ文化的な背景を反映したうえでも、その言語の持つ内容を日本語に簡単に置き換えることができる言語となっているのです。

反対に、日本語の持っている表現の細やかさや中間領域の捉え方を、原意を崩さずに置き換えができる言語は存在していません。


言語の基本感覚は幼児期の伝承言語である「母語」にありますが、実際に使用する言語については義務教育の初期で身につける学習言語である「国語」が大きな影響を持ちます。

この、「母語」と「国語」をどの言語で持っているかが、その人の文化的・精神的な背景ということができます。

「母語」は親や家族から伝承された言語による言語感覚となって生涯残ります。

「国語」は学習するための言語や共通語として人とのコミュニケーションするための最大の道具となります。

ここまでの習得過程において、他の言語の影響を受けることはその人自身の存在において大きな影響を受けることになってしまいます。


特に、日本語と英語は両極端にある言語です。

日本語の感覚は、英語の感覚をも包含して表現できるとても大きなものです。

そのために、日本語を身につけることはとんでもない時間がかかります。

義務教育のすべてを使っても間に合わないくらいです。

同じ漢字を持っている中国語の習得も時間がかかりますが、それ以外の言語については基本的な習得は小学校(義務教育)の低学年でほとんど完了しているのです。


世界の共通語としての英語の役割はほぼ定まったと言えるでしょう。

それは英語がきわめて二元的(ほとんどの国がそうですが)な表現に適しており、必要なことを必要なことだけ伝えるのに適しているからです。


全く同じテーマで結論を出そうとすると、英語、中国語、日本語の順でかかる時間が違ってきます。

日本語は英語のおよそ2倍の時間がかかったうえに、結論も違ったものになったってきたという実験があります。


日本語で英語の感覚を持つ表現をすることは簡単にできます。

英語の文法・構造に合わせればいいのです。

「主語+述語」をメインに置けばいいのです。

「私は、賛成します。」と言ってから根拠と理論を展開すればいいのです。

その感覚に慣れればいいだけのことです。

日本語のなかで十分に対応できる、日本語の一部として存在している感覚なのです。


英語を学ぶことのメリットはその感覚を学ぶことにあります。

会話の道具としての英語は、瞬間翻訳機の方がはるかに正確にやってくれます。

英語の構文に合わせた日本語表現をしていれば、下手に英語で会話するよりもはるかに歓迎されます。

日本語としての感覚がしっかり身についてから、英語の感覚を学ぶことが英語を使いこなすための一番の早道になります。


20世紀になってからは英語の国でも特にアメリカは過去の歴史にこだわりがありませんので、変わり身が早い対応ができる国です。

日本を一番学んだのがアメリカです。

それはコントロールするために学んだのであり、敬意を持って学んだのとは異なるものです。

その中で気が付いたのが、日本語(文化)における中間領域の存在です。

その結果さまざまな理論が生まれました。

制約条件理論などはその典型です。

もともと日本が持っているものを、自分たちが使いやすく体系化したものです。


逆輸入した日本では、反対に彼らの感覚になってしまっているので、そのまま運用しても実践の段階で感覚がずれてしまってうまくいかないのです。

「Yes no」の二元論と、「YesとNoの間」と言う、感覚の違いを判らないと英語を使いこなすことは難しいことになります。

この感覚は日本語の「YesとNoの間」という感覚が先にないと難しいことです。


もっと日本語をきちんと見てみたいですね。

気づかなかったチカラがまだたくさんあると思うのですが。



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