2014年11月9日日曜日

「対立」を扱うことが下手な言語

「対立」を扱うことが下手だと言っても、他のどんな言語に対してなのかということをはっきりさせておかなければなりません。

また、聞いたこともない様な言語と比較してみたところで、実際の意味はないと思います。

あくまでも比較の対象は、アメリカを中心とした英語との比較であってこそ意味があるものとなるのではないでしょうか。

ここで意識している英語は、アメリカの母語としての英語であると同時に、世界共通語・公用語としての英語であり、世界の標準的な言語・思考との違いを意識することによって、日本語の特徴をより鮮明にしようとする試みです。


物理的な国境は、国家としての統治によって厳格にその国の法律によって存在していますが、情報としての国境はとっくにボーダーレスの環境にあります。

情報の世界では既に国を越えた環境ができています。

そして、情報の世界の伝達は言語によって行なわれており、物理的な国や時間の制約を受けません。

個人とはいえ、世界の中での日本を意識せざるを得ない環境になっているのではないでしょうか。


言語は、その言語を継承してきた民族の精神文化が具現化されたものです。

その言語の一番わかりやすい論理構成は、その言語を使う民族の思考として一番得意な日常的な論理となっていると思われます。

コミュニケーションにおける言語への依存度も、その言語を使ってきた民族の言語環境を継承しているものと言えるでしょう。


日本語の継承されてきた精神文化にあるものは、「行間を読む」「以心伝心」「一を聞いて十を知る」などのように、言語以外によるコミュニケーションにかなりの重きを置いています。

更には、多言はおしゃべりとして嫌われますし、能弁は決してほめ言葉とはなっていません。

共通認識として持っていることを、あらためて言葉で表現することは、本来はとても重要な前提の確認であるにもかかわらずとても軽視されています。


対して、英語の文化においては、文字や言葉において表現されることがすべてであり、そこで表現されていないものは対象外とされます。

欠落がある場合においては、表現者の能力不足という評価となります。

したがって、言語による理解は言葉を聞いたり文章を読んだりすることよりも、伝える側の方の責任が大きくなっています。

コミュニケーションにおける言語への依存度は極めて高く、言語化されていないものについてについては、一部の心理学的なテクニックとして扱われるものが多くなっています。


日本語と英語を比較して、その特徴を表現してみると次のようなことが言えるのではないでしょうか。

同質、同調、集団、の日本語に対して、異質、対立、個、の英語という感じです。


このことは特に、交渉の場面において顕著に表れているのではないでしょうか。

日本語環境では交渉において利害の一致を見た時には、一体感や協力度においては目を見張るものがありますが、ひとたび対立の関係ができてしまうと利害の一致をみるような関係を作ることが困難になります。

英語環境では、対立の関係が当たり前であり、すべての人が異なっているという前提に立っていますので、その上でどのような交渉をしていくかという観点に立っています。

交渉は求める利を実現するための場であり、そのために相手を論理的に説得する場となっているのです。


論理に対する考え方も異なります。

英語においては、論理がすべてに優先します。

行動の動機は論理によって利を得られることが大きな要素です。


日本語においては、行動の動機は感情の方が論理をうまわります。

論理的には理がないとはっきりしていても、信じる・尊敬する相手のためならば行動するのです。

英語においては、親であろうとも論理的におかしければ批判の対象となるのです。

それがあたり前の行動なのです。


したがって、日本語は「対立」の関係を扱うことがとても苦手になっています。

そこで行なわれることは、「対立」の関係を確認することではなく、何らかの共通点を探し出し、部分的な協調の関係を模索しようとするのです。

ひとたび「対立」の関係に陥ってしまうと、全面否定の状況に陥ってしまうことが多くなります。

感情が判断を動かしますので、妥協のつもりで提出した案が受け入れられなかったときなどは、完全な全面否定となることが多くなります。

そうなると、同じようなことを言っているのに言葉一つの違いであっても、同調することができなくなってしまうのです。

こうなってしまうと、論理的な交渉は不可能になります。

日本語環境の方が、第三者による客観的な干渉が効果的であることがよくわかると思います。


昔から、このような場面が沢山あったのではないでしょうか。

その結果として、「両者痛み分け」「なかを採る」「折半にする」などという落としどころが用意されていったのではないでしょうか。


英語と日本語のどちらが良いとかいうことではありません。

それぞれの言語環境においては、それぞれの方法が根付いてきているのです。

目先の交渉テクニック的にその一部を持ってきても、役に立たないのは言語そのものにも大きな原因があるのです。


Win-Winという交渉術がありますが、日本語環境においては全く効果がありません。

ほとんどの人が経験していることでしょう。

しかも、英語環境にある彼らが言っているWin-Winと、日本人が理解して使っている内容が大きく異なるのです。

日本語流にWin-Winを解釈して、両者に利があるような交渉術であると思い込んでいるのです。

このことについては、過去のブログで触れているので参考にしてください。
(参照:Win-Win にだまされるな

日本語環境で行われる交渉の特徴を、英語環境の交渉と比べることによって見えてくるものがあります。

良い悪いではないのです、改める必要もないのです。

世界の標準といわれるところからみると、そんな風に見えるんだということを理解しているだけでいいのです。


海外の理論やテクニックを日本語流に持ち込んでも、最後の実践のところでほとんどのものが躓きます。

当たり前のことなのです。

そのことを知っているだけでも、海外との付き合い方が変わってくるのではないでしょうか。




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