2015年4月10日金曜日

論理はひらがなで作られる

今年の初めころに、思い切った極論を述べたことがあります。

恐らくこうではないかと思い立ったことを、自分で反例を見つけながらも言い切ってしまったことがあります。

感覚としては今でも、決して間違っているとは思いませんが、かといって確証がつかめているわけでもありません。

感覚として、このように捉えるといろいろなことについての説明が、より分かり易くなりそうだと感じたものでした。


それが「単語は発想、文章は論理」でした。
(参照:単語は発想、文章は論理

ブレインストーミングなども例に出しながら、文章としての構成が単語と論理から成り立っていることを指摘したものとなっています。

ここでは純文学を意識してはいません。

論文や評論のような論理的な展開を重視する立場からの検証となっていました。


そして、その文章の論理性を決定的にしているものが「ひらがな」の使い方にあると思われます。

一般的には、漢字で書けるものについては出来るだけ漢字で書こうとしますし、一般的に漢字で書かれることが多い文字についてひらがなで表記すると、よほどの意図があるか国語力がないと思われることになるようです。

文章の論理性の中身を決めているのが、「ひらがな」の使い方にあることに気がつくと、読んでいる文章の論理がとてもわかり易くなります。


文章のなかで使われている「ひらがなの」代表的なものは、接続詞、助詞、そして動詞や形容詞の語尾の部分になります。

この中でも、接続詞が上手に使われた文章は、論理がとてもわかり易いものとなります。

接続詞によって、論理の展開が初めにわかるからです。


「そして」「さらに」「そのうえ」「あるいは」などの順接接続詞があれば、今まで述べてきた内容に一段と説明や検証が加えられることが分かりますので、その準備をしながら先を読むことができます。

「しかし」「でも」「ところが」などの逆接接続詞が頭にあると、いままで述べてきた内容と反することが述べられることが分かりますので、そのための準備をしながら先を読むことができます。

「つまり」「すなわち」などが出てくると、視点を変えた言い換えが起こるのであろうと準備することができますし、「いっぽう」「かたや」などが出てくると、何らかの対比するものが登場してくることが予測できることになります。

上手に配置された接続詞は、文章全体の論理を理解することにおいては極めて有効なものとなっています。


動詞や形容詞の語尾のひらがなは、変化活用を表していたり時制を表していたりしますので、論理上の順番や検証事実なのか推論なのかを確認するための大きな手掛かりとなるものです。

「・・・された。」「・・・であった。」などで終わっているものについては、否定しようのない事実としての重みを持って理解されます。

「・・・ようだ。」「・・・される。」「・・・であろ。」などとなっているものについては、推論として理解することができ、事実とは異なったものとして認識することが可能となっています。


つまりは、「ひらがな」だけを追っていれば論理については、ほとんどのことが分かってしまうことになります。

見えてこないのは対象としての何についてなのかということだけになるのではないでしょうか。

それが単語の部分にあたると思われます。


この部分にはいろいろな表記の方法が採られています。

漢字、カタカナ、アルファベット、外国語、略字、記号、時には写真やイラストなども用いられることがあるでしょう。

最近ではリンクが張られたWebページなどということもあるのではないでしょうか。


論理の対象としてのモノや事ですので、「ひらがな」で理解した論理によって単語を関係づけすればいいことになります。

そこで役に立つのが、また「ひらがな」の助詞になります。

「・・・が」「・・・は」「・・・に」「・・・と」などすべてが関係性を表していることになります。

単語としては知らない単語や専門用語、聞いたこともない言葉も出てくるかもしれませんが、そこに気を取られて「ひらがな」による論理を読み飛ばす方が文章を理解するうえでは大きな欠損となってしまいます。


「ひらがな」は読めない人がいませんし、理解できない人もいないものとなっています。

その「ひらがな」による論理が理解できていれば、「たとえば」から始まる文章の一群については、その前が理解できていれば不必要な場合が多くなることになります。


書かれたものを理解するということは、単語を理解することよりも論理を理解することの方が大切になります。

書かれたものの一部を取り上げて、その部分の論理を話題にしてもあまり意味のあることにはなりません。

特に論文のような形式のものについては、全体通しての論理をきちんと理解しないと誤解を生むことにつながります。


このことは、自分で文章を書くときにも注意する必要があることになります。

「ひらがな」を意識して書くことによって、より理解しやすい文章となることは間違いありません。

話し言葉として発するときには、いい加減に扱ってしまいがちの接続詞や語尾の変化は、文章にした時には論理構築のための柱となっているものです。

それだけに、使い方が間違っていると一番伝わって欲しい論理に誤解をされる可能性が高くなることになります。


この個とは論理を中心として転化する文章が多くなる、論文や評論において当てはまるものだと思っていましたが、純文学においても同様なことが言えることが分かりました。

日本による純文学を純文学たるものにしているのが「ひらがな」だったのです。

確かに、「やまとことば」の歴史は「ひらがな」によって継承されているものとなっています。

文学的な表現は「ひらがな」をうまく使って行わないと、上手くいかないようになっています。


つまりは文章としての特徴を決めているのも「ひらがな」の表現によるものであると言えるのではないでしょうか。

俳句や短歌から論文、評論、純文学などどんな文章においても使用されている単語は変わりがありません。

「ひらがな」の使い方が違っているだけのこととなっています。


文章としての特徴や論理を決めている「ひらがな」に対して、私たちが身につけている使い方はあまりにも貧弱ではないでしょうか。

学校教育で「ひらがな」の論理としての使い方など、教わったことがないのですから仕方のないことかもしれません。

しかし、論理を理解するときに行なっている活動はまさしく「ひらがな」の使い方を頼りにしていることではないでしょうか。


数多くの本を読んで、いろいろな論理を理解した人ほど読解力が高いことは当たり前のことです。

自分の得意な論理のパターンが口癖や文章の癖となってしまうことも仕方のないことです。

慣れのない論理の構成に出会うと理解するのに苦労するのは当たり前のことです。


そんな時こそ、「ひらがな」に頼ってみるのも一つの方法ではないでしょうか。

専門用語の羅列で訳の分からない文章だと思ったものが、意外とすっきりと理解出来るかもしれないですね。