2015年4月20日月曜日

文法に囚われない言語

ラテン語から派生していった近代言語においては、きちんとした文法(用法)が整っており、そこにおける例外もきわめて少なくなっています。

例外の少ない文法は、言語を解釈することにおいてとても大きな助けになります。

例え一つひとつの言葉を理解できなくとも、文法における構文や用法から見ていくことによってかなりの確率で推測することができるからです。


文法がきちんと整っている言語は、その言語が使われ始めた時に話し言葉だけではなくそれに対応する文字があったことが大きな要素となると思われます。

現代においてはラテン語を日常言語として使っている国は一つもありませんが、英語やドイツ語、イタリア語などラテン語から派生していった言語はたくさんあります。

ラテン語自体がラテン文字を持っていましたので、派生していった言語は文字を伴って発展していきました。

その過程において、ラテン語の持っていた文法をさらに整えていって例外の少ないものとなっていったと思われます。


中国においても、もちろん話し言葉が先にあったと思われますが、世界で一番古くからの文字である漢字を使ってきています。

多くの民族が広大な大陸に分散しており、話し言葉だけでは意味が通じない環境にある中国では、漢字の文法を例外の少ないものとすることによって共通理解の助けとしてきたと思われます。

日本に漢語が伝わってきたころには、その文法はほぼ現代と同じ程度のものになっていたと思われます。


もともと日本には文法という考え方がなかったと思われます。

明治維新以降に西洋の言葉が一気に大量に入ってきたときに、文法に沿ってできている文章に美しさを見つけ、文化の開きを感じたことが始まりではないかとも言われています。

文法という考え方がない訳ですから主語,述語がなく、場の状況や描写を意識して言葉を捜して会話してきました。


しっかりした文法を持った漢語を導入した後でも、日常言語はやまとことばであり漢語が話せるのは一部の限られた人だけでした。

そこから生み出した仮名は、話し言葉を記するためのものであるため文法という考え方には至らなかったと思われます。


その場の雰囲気を大切にして言葉をつないできたのではないでしょうか。

そこに西洋より採り入れられた文法という考え方を無理やりあてはめたわけです。

通常、文法については研究者の名前を取って〇〇(式)文法と呼ばれます。

どの文法研究においても必ず例外が数多く存在しています。

もともと文を構成する規則性を持たずに1000年以上を経過した言語を、無理やりに分類してあてはめたわけですから、いたるところに説明のつかないことがあるのは仕方ありません。


日本語は主語や述語が省略されることが多くて分かりにくい、とよく言われます。

文法から考えるとこのような言い方になってしまうのは仕方のないことです。

もともと、文法なんかないわけですから、主語も述語も省略も何もないんですね。

自由奔放に飛び交う言葉に対して、文法的な理屈をつけているわけですからその研究は例外だらけになってしまいます。

例外の多さは、分類を主体とする研究者にとっては敗北感を味わうことになります。
更に細かく研究していきますと、ものすごい量の研究対象と分析になります。

日本語の文法研究に関する書物はとんでもない厚さになっており、ほとんどの研究は完結しておらず何らかの継続課題を残しているものとなっています。


ところが、論理的に言語を学ぼうとすると文法から始めることが一番頭に入りやすい方法です。

枠(文法)を学んで、その枠にあてはめる要素(語彙)を学ぶのは学習の王道ですよね。

日本語の場合はこの王道をきちんとやればやるほど、例外で頭をひねることになります。
日本語を学ぶことが難しい理由はここにもあるんですね。

もし、私が日本語を知らないで日本語を学ぶことになったら間違いなく途中で挫折すると思います。

唯一の方法は、難しさに気付かないうちに学び続けて、あるレベルにまで一気に到達してしまうことでしょうね。


自由に飛び交う言葉にこそ、日本語の姿があるのですが、それでは言語に対しての共通の感覚が持ちにくくなってしまいます。

そのために、ガチガチの文法で固められた国語という共通言語が必要になっているのですね。

日本語の中のほんの一部が国語になるわけですが、本来の日本語は国語の枠でとらえることができないものとなっています。

それでも共通理解のためには、誰でもが同じ理解をできる国語という枠があることが大切になるのでしょう。


国語ではない日本語はいたるところにあふれており、社会に出てしまえば国語以外の日本語の方がはるかに多くなっています。

文法にこだわることなく、自由に言葉が飛び交う言語としての日本語は、他の言語話者から見たらとてつもなく分かりにくいものだと思われます。

私たち日本語の母語話者は、無意識の感覚でこれを行なっているのだと思います。

そして多少のおかしなところがあったとしても、それを受け入れて理解してしまう懐の広さも併せ持っているのではないでしょうか。

文法がない言語が日本語であると思った方が、無駄な苦労しなくて済むのかもしれませんね。