2015年5月2日土曜日

言語環境の意識の仕方(2)

日本語が持っている基本的な性格は、常に変化し続けている言語使用環境において「ふさわしい」表現を選択することになります。

しかも、その環境には相手との関係における環境もありますし、言語使用する場や話題(テーマ)や目的によって「ふさわしい」表現を選択する必要があります。


相手との関係においては、先回のブログでも親疎関係と上下関係についての軸について「ふさわしい」表現が求められることを述べました。
(参照:言語環境の意識の仕方(1)

実はそれだけではなく、相手との関係においてより「ふさわしい」表現をするためには、知らないうちにやっていることがあります。

特に親疎関係が遠い場合や上下関係が判断しにくい場合などにはよく行なわれていることです。


簡単に行ってしまえば、話をする相手が何者なのかということが分からないと「ふさわしい」表現の基準がつかめないことになります。

相手が何者なのかがわかって初めて親疎関係や上下関係が明確になり、それに適した「ふさわしい」表現が可能となります。

そのためには、相手のプロフィールや属している環境を知ることから始まります。


初対面の相手に、「ご出身はどちらですか。」「お住まいはどちらですか。」などと切り出すのは、まさしくこの活動をしていることなのです。

この問いに対して、本籍地や現住所を正確に答える人はいませんよね。

お互いに遠い関係にありますので、緊張感と同時に警戒感があるからです。


その遠い関係を緩めるためには、「わたしは、神奈川出身なんですが、ご出身はどちらですか。」と、自分のプロフィールの一部を先に伝えることによって警戒心を取ろうとすることが行われたりします。

ここで同じ出身地でも出てきたら、一気に親疎関係が近づくことになります。

そうでなくとも、相手のプロフィールの一部を知ることによって何者であるかを推察できる条件が絞れることになります。


このときに使われる言葉は、共通語としての国語(標準語)であり、その性格としてよそよそしさや改まった感じが伴うものとなります。

あるいは、見た目や態度から推察される何者かによっては、かなり程度の高い敬語であったりすることにもなります。

自分が感じた親疎関係や上下関係よりもどうしても丁寧になってしまうのは、その推察が外れた場合のリスクに備えての危機回避行動となります。


丁寧すぎる表現についてはいつでもくだけることは出来ますが、くだけすぎた場合については相手の反感を買う恐れがあるので取り返しのつかない可能性を秘めているからです。

この丁寧さとくだけ方もきちんとした段階があるわけではなく無段階に存在するうえに、人によっては同じ表現であっても持っている言葉によって受ける印象が異なってしまうことをわかっているので、無意識のうちに丁寧な方に振れることになります。


また、同じ相手であっても話している場や内容によっては丁寧さの度合いが変わってきます。

親友であっても、借金を頼むときには丁寧な表現となりますし、怒りの感情が高まった時などはくだけた以上にきつい表現となったりします。


今回はそのような、相手との関係以外の内容について見てみたいと思います。

わかり易い例を挙げてみましょう。

公式会見の場で自分の弟である記者から投げかけられた質問に対して、家にいる調子で応える人はいませんよね。

そこには、質問者がだれであろうとも公式会見と言う場に「ふさわしい」表現がされなければなりません。


家では「何バカなこと聞いてんだよ。」と言ってる弟に対して、「難しい質問をいただきました。」とか言うことになります。

ここでは、弟という家族という言語共同体における存在よりも、公式会見という場における記者という存在の方が優先されることになるからです。

人はいくつもの言語共同体に属していますので、意識しないと慣れた言語共同体の感覚が顔を出してしまいます。

ここで「何バカなこと聞いてんだよ。」となると、まさしく空気が読めないことでバッシングを浴びることになりかねません。


更には、話題としていることにも「ふさわしい」表現が求められます。

震災被害についての話題の時に、不必要に明るい表現を使っても空気が読めないことになってしまうようなものです。


場と話題の混合の場面にもよく出くわすことがあります。

知人の葬儀の時に、久しぶりに会った同級生と昔話で高笑いをしているような場面は、皆さんも経験があるのではないでしょうか。

完全に空気が読めていないどころが、空気を壊してしまっていることにもなりますね。


もう一つが話の目的です。

どんな目的のために表現しているのかと言うことによって「ふさわしさ」が大きく変わってきます。

これは話だけではなく、書くことにおいても言うことができます。


ただし、書くことにおいては話すことと違って目に触れる機会がその場ではないことが多くありますので、発信するまでには修正ができることになります。

反対に、うかつな「ふさわしさ」のミスが記録として残ることになりますので、決定的なものとなってしまうこともあることについてはより注意が必要になります。

例えは、論文や国に対しての申請などは、いわゆる定型が存在しているために、そこから外れると内容以前にふさわしくないものとして扱われることなります。


同じことを伝えるにしても、日本語の表現は非常にたくさんのものを持っています。

それは必要だからそれだけたくさんの表現を持っているのであり、使い分けをする必要があるものとなっているのです。

しかもその使い分けは絶対的な基準があるわけではありません。

ましてや、会話においては使い分けをするべき言語環境が瞬時に変化することが多くあります。


その変化に対して「ふさわしい」ものを瞬時に選択してくことは、論理的に考えていてはとても対応できるものではありません。

まさしく空気を読みその場その場で「ふさわしい」ものを選んでいくことは、感覚として行なっていることではないでしょうか。

日本語を母語として持って日本語の感覚に馴染んでいる者にとっては、本音の自己主張をすることができる環境はほとんどないと言ってもいいくらいです。


本音の自己主張をすることが「ふさわしい」環境は、めったに出会うことがないからです。

その分、日本語を母語として持っている感覚は、言語環境を意識している分だけ相手の表現から推察する能力に優れたものを持っています。

あからさまな自己主張は必要無いようになっているのです。

反対に、あからさまな自己主張はほとんどの環境において「ふさわしく」ないものとなり、空気を壊すことになるのです。


日本人であってもしっかりとした自己主張は行なっているのです。

しかし、それは「ふさわしい」表現を尊ぶ感覚が分からないと、見えてこないものとなっているのだと思われます。

「ふさわしい」表現の中から自己主張を読み取るのも、日本語の感覚なのですね。

なんと奥深い言語の感覚なのでしょうか。