2015年5月11日月曜日

「あそび」の言語

日本語は他の言語に比べると、その表現の豊かさは比較にならない程であることは何度か触れてきました。

そこには広い意味で「あそび」の要素がふんだんに取り込まれているからではないでしょうか。

論理性、効率性、生産性を重点に追い求める欧米型の知的活動や感覚には、欧米型言語がその機能を最適な形で表現するものであろうと思われますし、そのために一番適した形で言語が形成されてきたということができると思います。

かたや、日本語による知的活動や感覚は必ずしも論理性や効率性を重視したものではなく、その根源を自然とのかかわり方などで説明をしたりしてきました。
(参照:自然とのかかわりで見た言語文化 など)


先日、今年の芥川賞作家である小野正嗣の話を聞く機会がありました。

作家としての作品だけではなく、東京大学の文一に入学しながら法学部への進学をせずに文学への道を選択した生き方は、強い意志を感じることができました。

それにもまして、教養講座と名を打った講演ではありますが、その話のパフォーマンスは下手な芸人よりもよほど面白くしかも気づかされる事の多い内容でした。

それなりの原稿は用意されていたと思われますが、聞き手の興味と関心を瞬時に捉えた当意即妙のアドリブや横道は、芸に匹敵するものではなかったかと思いました。


そのなかで取り上げたのが「あそび」についてでした。

現実と対比した想像の世界という意味で使われていました。

特に子供の遊びを例に挙げて、現実の自分ではないキャラクターを楽しむことを「あそび」としていました。

その典型が、ごっこ遊びではないかと思われます。


作家としても、想像力の世界で作品を書いているときは「あそび」であり、なりきって想像の世界で「あそび」ながら言葉を紡いでいるのではないかと指摘されています。

現実の自分のことを書くことは苦しい作業であり、やりたくないとも言われました。

生きていくためには、「あそび」は必ず必要でありその多さがゆとりや豊かさにつながるものではないかと考えさせられました。


そうしてみてくると、「あそび」はひらがなでなくてはならなくなり「遊び」とは一線を画したものと思われます。

例えて言うならば、自動車のハンドルの「あそび」であり、噛み合う歯車の「あそび」ということではないでしょうか。

歯車が隙間なくピッタリと噛み合ってしまっては、その状態で固まってしまい動かなくなってしまいます。

効率のよい歯車にするためには、回転を正確に伝えるための計算された「あそび」が必要になります。


さらなる大きな「あそび」は効率は良くないかもしれませんが、そこに独特の味があるようにも思われます。

回転の伝達効率だけを求めたのではない、「あそび」の多さによる予測のできない味が加わるのではないでしょう。


「あそび」が多すぎては、今度は歯車としての役割を果たせなくなる場合も出てくることもあるかもしれません。

その歯車の使用目的や使用環境によって、許容される「あそび」も制限を受けることになるのではないでしょうか。

このことは、まさしく言語の使用環境における「ふさわしさ」と相通じるものがあるように思えました。
(参照:言語環境の意識の仕方


言語として、この「あそび」を当たり前のように生み出し続けて継承してきたのが日本語ではないでしょうか。

ひらがなの「あそび」には漢字の持つ「遊び」よりも、更に抽象的な広いニュアンスがあと思います。

同じ言葉をひらがなと漢字で書き比べてみれば、すべてについてそのように感じることができると思います。


「遊び」の反対語には「真剣」が当たるかもしれませんが、「あそび」と「真剣」は相容れないものではありませし、同時に存在することもできるものだと思われます。

たしかに、「あそび」には「いいかげん」というニュアンスも含まれす。

「いいかげん」はまた、デタラメもあれば良い加減もあり、原意から言えば決してデタラメのニュアンスは強くありません。

「あそび」には現実の自分を離れた、想像力を刺激されるゆとりのようなものを感じることができるようです。


学校教育の内容のほとんどが、欧米型言語の感覚を持っているものとなっています。

自然科学そのものが欧米型言語の感覚で発展してきたものである以上、それは避けることができないと思われます。

しかしながら、私たちは日本語という世界でも稀に見る言語を持って生きています。


日本語の歴史は文字を持った瞬間から、「あそび」の歴史ではなかったのでしょうか。

日本語の表現技術を磨いてきたのが和歌であることは、何度も触れてきたと思います。

これこそが、まさしく「あそび」そのものではないでしょうか。
(参照:和歌に学ぶ言語技術


読み手の感性や感覚をも期待して詠まれた作品の数々は、作者だけでは作品として存在できないものです。

読み手が「あそび」のなかで想像力を広げて、作者と同じ環境で同じ歌を詠んだキャラクターになって初めて作品として成り立つものではないでしょうか。

学生の国語の試験であれば、国語的な「あそび」のない正解としての解釈をしなければ点数をもらえないかもしれませんが、文学作品においてはどこまで「あそび」をできるかがその作品に対しての敬意ではないかと思われます。


作者自身が現実の自分とは異なるところで「あそび」を行なっているのですから、読者も「あそび」としてその言葉に触れることがより良い向き合い方のような気がします。

論文や報告書においても「あそび」は存在できます。

もちろん文学作品や随筆に比べればその制限ははるかに大きなものです。

しかし、そこに言葉で表現するものがある以上は、どんなに窮屈であろうとも必ず「あそび」が存在できる余地があるはずです。


日本語の持っている文法の自由さや語彙の豊かさ、ほぼ無段階に存在する中間的な表現などはすべて「あおそび」のための要素ではないのでしょうか。

相手を考えない自分勝手な「あそび」すぎたものが「ふさわし」くないと受取られるだけのことであり、どのように「あそび」をするかを考えることで「ふさわしさ」から外れないことができるのではないでしょうか。

作者や書き手や話し手が、どのように「あそび」をしているのかを考えることは楽しいことではないでしょうか。

聞き手や読み手の想像力を刺激して、伝える側の「あそび」に触れることを助けることができることが大切になるようですね。

何にでもなれる「あそび」同士のキャラクターのぶつかり合いが、好き嫌いになっていくのかもしれませんね。


そこには共感もあれば反感もあるでしょう。

共感や反感は現実の自分との対比です。

あまりに現実に近い感じを受けてしまうと、現実と「あそび」の境が感じられなくなってしまうこともありますね。

どうやら、現実だけで生きていくのはかなり苦しいようですね。

日本語そのものが「あそび」をするようにできているようです。

素直に日本語の感覚にしたがってもいいのではないでしょうか。