2015年5月20日水曜日

原著論文と日本語

論文の中でも最も優位にあるものが原著論文と呼ばれるものだそうです。

著者自身が新しい発見をして、それについての報告を学術書の記事として掲載されたものになります。

掲載に至るためには、内容が完全にオリジナルで新規性があるか、間違えがないかなどを検査するためのメンバーによる査読に合格しなければなりません。

掲載誌のランクや内容にもよりますが、通常は3人以上のメンバーが、最低でも3ヶ月以上をかけて査読を行なうようです。

1年以上かかる査読もよくあるそうです。

その結果が、掲載にふさわしいとする採用、または手直しを必要とし再提出を求める条件付き採用、そして不採用の3段階で通知されます。

学内での合否を決める卒業論文とは全く次元の違うものと言っていいと思われます。


私などは、文化系の学部であり、卒論はおろかゼミ論すら書かずに大学を卒業していますので、今までに論文と名のつくものは書いたことがありません。

それに比べれば、理科系の場合は論文に対する評価がとても大きなウェイトを占めることになります。

理科系の学生や研究者は、学会を代表する国際的な学術誌に掲載されることを目指しますので、最終的には英語の論文を書くこととなります。

母語が英語の場合は問題ありませんが、ほとんどの場合は日本語を母語として持っている人たちが、なんとか定型を参考にしながら英語の論文を仕上げていくことになりなす。


原著論文に至る内容は最高レベルの知的活動の記録でもあり、母語を最高レベルで使いこなすことでしか達成できないものとなっている筈です。

どんなに使いこなせたとしても、第二言語では絶対に不可能な知的活動となっていることでしょう。

知的活動の質とレベルは、母語によるものに勝るものはありません。

複雑な思考や高度な思考になれば、どんなに他の言語でやろうとしても、必ず母語で行なっていることに気がつくと思います。


原著論文は論理性と正確性の権化のようなものであり、日本語が備えている性格や他の言語と比較した特徴からみると、日本語による表現はとても難しいものとなります。

論文を書くこと自体が知的活動ですので、母語で行うこと以上の結果は望めません。

実際の指導者である教授にしても、ほとんど英語の書き方が指導の中心になってしまうことも少なくないことだと聞きます。


そんな中で約34年前に出版された名著が「理科系の作文技術」(木下是雄)です。

あらためて読み返してみると、最終的な英語論文までを意識しながら、日本語による原著論文のための作文技術が詳細に書かれています。

英語論文作成の指導がほとんどで、肝心の研究についての指導があまり時間が取れなくて困っていた木下先生の思いが詰まったものとなっています。


英語の論文が書けない原因が、そもそもの日本語の作文ができていないことにあると気がついた先生が、原著論文のための日本語作文作成について科学者らしいアプローチと分析で書かれたものです。

そこでは、実験や観察による事実に基づくデータによる明確な論理が展開されるべきものであり、感情や感覚によるものは一切排除された世界となります。

嘘の世界を楽しむ小説や心のままに筆を走らせる随筆とは、対極の世界にある文章となります。

言い方を変えれば、最も日本語らしくない文章ということもできます。

更に言い換えれば、もっとも英語の感覚に近い日本語ということもできると思います。


英語で書かれた論文に対して提出前に意見を求められることがいちばん辛いことだと、木下先生が言われています。

並び替え程度の英語の修正では済まないからだそうです。

根本的な文章の構成や論理の展開そのものをいじらなければならなくなるからだそうです。

気になれば放っておけませんが、そこまで手を入れてしまっては誰の論文だかわからなくなってしまいます。

日本語の段階から正さないと、英語としても「ふさわしい」ものにならないということだそうです。


日本語による原著論文は、もう一つの日本語の究極の姿ではないでしょうか。

日本語がここまで正確さと論理を表現できるものとして、知っておく必要があるのではないでしょうか。

もちろん面白さを求めるものではありませんが、その表現技術は参考になるものが沢山あると思われます。

とくに、文科系の人にこそ触れて欲しいものですね。