2015年5月28日木曜日

「違い」を嫌う日本語感覚

日本語の感覚では、悪い面だけでなくとも極端なものに対して抵抗を感じるということがあります。

このことは、いろいろな言葉で表現されています。

バランス感覚であったり、違いに対する敏感さであったり、人と同じことで安心することであったり、人と違うことが不安であったりすることです。

まさしく他の文化の影響を受けることが少なかった、独特の歴史文化が築き上げた共同・平等
意識ではないでしょうか。


その感覚は、環境の変化に対して自らを変化させることによって適応させていきますので、理想はどんな環境にも対応できる柔軟性になります。

したがって、混沌であろうと整然であろうと適応期間さえ確保できれば共生していくことができます。

自分のチカラを持って環境に影響を与えていこうとする欧米型言語の感覚とは正反対の感覚となります。


極端なものという判断基準が自分の中にあるのではなく、共生しているあるいは共生しようとしている環境の方にあることになります。

あらゆることの判断基準が自分独自のものではないのです。

確固たる自己を確立することをめざし、独立した自己の判断を基準として生きていこうとする欧米型言語の感覚と大きく異なるところとなっています。


自分の判断基準で結論を出していると思っていても、そこには自分が共生したい(目指している)環境における基準に従おうとしていることが分かります。

「なりたい自分がいる環境ではこのように判断するはずだ。」あるいは「このように判断しなければならない。」といった感覚がどこかにあることになります。

完全なるオリジナルの判断基準を持つことは不可能ではないかと思えるくらいです。


したがって、ひとつの環境だけと共生していると、偏った判断基準になってしまい他の環境にとも共生している周囲からかけ離れてしまうことが起きます。

そこで、どのような環境でも対応できる判断基準を持つために数多くの環境と共生しようとすることになります。

単純に言えば、広く浅くが日本語の持っている基本的な感覚です。


結果として、日本語環境においては極端な「違い」を持った者は存在できなくなりますし、排除されてしまうことになります。

同じ問題に対して、共生している環境が異なると判断が異なることがありますが、強弱を別にすればどちらの環境とも共生していることになりますので絶対的な判断基準が持てないのです。


極端な違いは、それだけで排除の対象となってしまいます。

実際の態度や行動に表わすかどうかは別問題です。

結果として目指すところは、あらゆる分野において中庸ということになります。

更に目指すとしたら、中庸としてのレベルを上げることになります。


いろいろな分野において素晴らしい実績を挙げる人がいても、そのことだけでの評価はするもののそれでは極端な者になってしまいます。

そのためにその分野以外のことを知り、同じ中庸な環境を見つけては安心することになります。

あらゆる業績者に対して、その実績に対してだけではなく全人格的な評価をしてしまうのはそのためのだと思われます。


受刑者が作った作品であっても、純粋に美術的判断基準によって評価ができるのが欧米型言語の感覚です。

日本語の感覚だと、受刑者であることだけで美術的判断の対象とはならないのです。

優れていることも劣っていることも、その判断は中庸のなかでの対象となってしまうのです。


海外における実績などで極端に優秀な評価を受けるものに対しての個人的な評価は二通りになります。

他の分野においても同等程度の優秀な評価を確認することによって、異常に高い中庸のレベルとしてあこがれの対象となる場合と、他の分野における評価が極端に悪くて優秀な評価とのバランスにおいて自分の思える範囲の中庸に落ち着いて安心する場合です。


極端に優れた優秀さにおいては、極端に劣った部分を見つけることによって、そのバランスのなかで優秀さを納得することになります。

他の分野でも極端に優れた部分ばかりが目立つときには「神」的な存在となってしまいます。

そんな中で、極端に劣った部分を発見したときは気持ちとしてホッとする部分があるのではないでしょうか。


芸能人のゴシップネタなどはまさにこの典型ではないでしょうか。

芸能人はある種の能力が高い人集団と言えます。(最近ではそうでもないのが多いですが・・・)

中庸としての自分とは違う極端にいることになります。

その芸能人が、ゴシップや失態よって自分の中庸よりも劣ったところを見つけると、自分と同じ中庸レベルとして共感を持つことになるのです。


この日本語の感覚は、日本語の基本的な構図からも見ることができます。
(参照:日本語の基本構造

並列的な要素をそのままキープしながら、最後の結論を待つ姿です。

しかも最後の結論のほとんどは、どこかに読者の判断に委ねるものが含まれたものとなっているのです。


世界の公用語が英語である以上、その感覚については知っておく必要があります。

しかし、その知り方は自然に身についてしまっている日本語の感覚から見た内容であることが必要になります。

他の言語から見た感覚を知ったところで、言語研究者でもなければ役に立つことはありません。

英語文化のなかで英語の感覚で評価されたのもののほとんどが、日本の現場に合わないのはこのような理由からです。


日本語の感覚で日本語で表現されたものを、そのまま英語にしても感覚として伝わらないのと同じことになります。

世界の公用語としての英語との比較において日本語の感覚を知っておくことは、今後ますます大切なことになると思われます。


いよいよ本日開催です。