2015年6月16日火曜日

気質と言語と社会

ここ数回にわたって目標志向型と状況対応型について述べてきました。

この言葉は動物占いやNLD性格学などにおける、人の生まれついての気質分類で使われているものです。

生年月日を基準とする性格分類ですので、基本的には四柱推命がもとになっているものと思われます。

そうしたことでは、気質学や風水ともつながりがあるのかもしれませんね。


参考までに、NLD性格学では以下のような定義で分類されています。

◇目標志向型
物事の全体像や終着点を理解した上で現在やるべきことをやっていきます。直線的で、目標に向かって段階的に進めるイメージ力とこだわりが強みです。
ただし着地点が変更されると融通が利きません。また目標達成にムラは少ないですが、成果は言われたところまでとなります。
目標が定まるとそれに向かって進める一方で、目標が定まらないことには動けないという面もあります。目標達成によって得られる果実を喜びとするタイプです。

◇状況対応型
目の前のことから実行して、その積み重ねで目標を達成させていきます。臨機応変に対応し、実行する過程で他に良い選択肢が見つかれば変更する柔軟性があります。
ただしあらかじめ予定を組むことが出来ず、また予想以上の成果を収める場合もありますが、ツメが甘い傾向もあります。
目標がプレッシャーになりやすく、目標や計画にこだわらずにとにかくやってみるという感じです。目標達成そのものよりもプロセスを楽しむタイプです。

この分類で言語や社会環境を見てみた時に面白いことに気がつきました。

近代文明を作り、理想を目指して作り上げられた社会は欧米型言語による目標志向型のものであるということです。

言語もそうならば社会の構造や考え方そのものも目標志向型によるものであると言えます。


個人として持っている気質が状況対応型であったとしても、使用している言語から生きている環境そのものが目標志向型であるために、自然と目標指向型に馴染んでいったものと思われます。

それでも強い状況対応型を持って生まれた人にとっては、違和感を感じることもあったと思われます。

しかし、その違和感は自分自身が違っているのだということで納得していたのではないでしょうか。


外国人にも異様に日本びいきの人がいますが、おそらくは基本気質が状況対応型の人ではないかと思われます。

彼らは、日本の社会や産業技術に対しての興味はほとんど示しません。

言語を代表とする文化や芸術に対して興味を示します。


欧米型の近代社会では、個人としての持って生まれた気質以外の言語や社会の構造や考え方そのものがすべて目標志向型であるということができると思います。

そのために、その世界で生きている限りにおいては矛盾や違和感は感じる隙がなく、論理的にも単純でわかり易いものとなっていると思われます。


それに対して、日本は持っている言語である日本語が状況対応型であると思われます。

日本語の成り立ちや構図を考えて、欧米型言語と比較すると鮮明に見えてくるのではないでしょうか。
(参照:自然とのかかわりで見た言語文化日本語の基本構造 など)

それにもかかわらず、社会の仕組みや構造は欧米型の近代文明を模倣して、彼らの持っている基本的な感覚である目標志向型で作り上げてきました。

分野によっては脇目も振らずに盲目的に取り組んできたこともたくさんあります。


言語は文化そのものであり、精神的基盤でもあります。

その言語が状況対応型であるにもかかわらず、目標志向型の社会を作り上げてきたのです。

精神文化的なものと現実社会的な生活との間に抱えている矛盾が、欧米型言語の環境よりもはるかに多く現実化していることになっているのです。


教育やルールでいかに目標志向型を植え付けようとしても、植え付けるための最大の道具である言語が状況対応型である以上は必ず矛盾を内在してしまうことになります。

それでも、新しい言葉を作りながらあるいは外来語としてそのままの言葉を利用しながら対応してきました。

しかし、言語の基本的な構造が状況対応型である以上は、限界があるのです。


本人の気質として状況対応型が強い人ほど、社会環境において両者の矛盾から来るストレスに晒されることになります。

欧米のように、言語までもが目標志向型であれば教育によって植え付けることは可能ですが、もともと持っている状況対応型の気質が強い場合は、言語との融和性に優れています。

言語は精神文化の基盤であり、知的活動のための唯一の道具です。

状況対応型の知的活動を行なうほど、目標志向型の現実社会との矛盾に晒されることになるのです。

考えれば考えるほど言語を使いますので、状況対応型のパターンが発現することが増えてきます。

考えれば考えるほど、現実としての目標志向型との矛盾が多く見つかってしまうことになるのです。


本人の持っている気質として目標志向型である場合には、現実社会の構造や活動と相性がいいことになります。

日本語の持っている目標志向型に使える部分をうまく利用することによって、欧米型の論理を導入しながら現実社会をストレス少なく生き抜いていくことができるのではないでしょうか。

一般的に言われる現代における成功者はほとんどがこのタイプではないかと思われます。


経営や企業管理に欧米型の論理が展開されるようになる前の創業期には、日本語型の経営者もたくさんいました。

まさしく日本的な経営が行なわれていたころではないでしょうか。

論理性と効率性が追い求められた社会では、目標志向型が効果があったことは間違いないことだと思われます。

矛盾を抱えていることをわかりつつも、効率性と成果を求めて目標志向型をあらゆる面で優先してきたのだと思われます。


状況対応型という存在にすら気がつかないでいたということの方が正しいのかもしれません。

状況対応型の思考や活動は、曖昧さや軟弱さ優柔不断さなどを指摘されて弱者の論理として切り捨てられてきたこともあったと思われます。

良かれと思って作ってきた実社会と持っている言語(文化)の感覚が異なったものとなってしまっているのです。


欧米言語圏の国に比べた時に異常に多いストレスを抱えた社会人の比率は、まさしくこの裏づけではないでしょうか。

あらゆる場面で少しずつ状況対応型の現象が現れてきているように思えます。

まさしく和魂洋才ではないでしょうか。

どちらかに偏ることが矛盾を生むことであって、共生できないことではないのです。


目標志向型で突っ走ってきた世界がいたるところで行き詰まりを見せています。

今までと同じアプローチでは限界があることを、彼ら自身が感じ始めています。

日本に対しての無言の期待感はいろいろなところで出ているのではないでしょうか。


あらためて日本語の持っている感覚が見直される時期なのかもしれません。

いつの間にか日本語がブーム的な広がりすら見せている現状ではないでしょうか。

状況対応型の活動や思考を隠す必要もなくなってきているのではないでしょうか。

あらためて自分の持っている気質も見直してみたいものですね。