2015年9月15日火曜日

文字と言葉(2)

人は文字を介したた言葉によって活動しています。

しかし言葉という「ことば」がどんどん拡大利用されることによって、原意から離れて言語と同じような意味で使われるようになっています。


話し言葉と書き言葉という表現があります。

ほとんどの人は何の違和感もなく受け入れられるのではないでしょうか。

言葉とは音によって表現されたものであり、同じ音であってもその音の出し方によってはその言葉に込められた意味が簿妙にニュアンスの変化するものです。


したがって「話し言葉と書き言葉」という表現では、原意からするとおかしな表現が二ヶ所あることになります。

一つ目は「話し言葉」です。

言葉が音によってできている以上話すことによって言葉となっているわけですからこの表現は二重の表現をしていることになります。

「落雷が落ちた」や「頭痛が痛い」と同じような表現ということになります。


もう一つは「書き言葉」です。

言葉は音によって表現されていることになりますので、書くことによって言葉を表現することは不可能です。

「書き言葉」という表現自体が言葉の原意からするとあり得ないことになります。


では、「話し言葉と書き言葉」をできるだけ「ことば」の原意に沿って表現するとどうなるのでしょうか。

それが「言葉と文字」ということになるのではないでしょうか。


これでは文字として同じ「言葉」が使われているために、現代の拡大解釈された意味では分かりにくい表現となってしまいます。

そのためにここでは言葉を原意として使用する場合には「ことば」とひらがな表記をすることとします。

そうすることによって拡大利用され曖昧となってしまった言葉という文字による影響をできるだけ避けてみたいと思います。


人が人として生きていくためには「ことば」が必要であり、文字は「ことば」を認知するための一つのツール(記号)です。

人が生まれてから幼児期の間に身につける母語は「ことば」であり文字ではありません。


母語として持った「ことば」を聞き取るために都合の良いように聴覚が発達していきます。

他の音と「ことば」を聞き分けるために言語野が発達していきます。

自分の母語である「ことば」が話しやすいように声帯が発達していきます。

母語として持った「ことば」であらゆる知的活動を行なうように脳が発達していきます。


文字を習い始めるのは基本的には義務教育が始まってからです。

文字は「ことば」を記録するための記号でしかありませんので、文字=ことばとは決してならないものです。

私たちは文字を言葉として理解していると勘違いをしているのです。

だから「話し言葉と書き言葉」という表現ができてしまったのです。


文字は記号ですのでそれだけでは脳は理解できないのです。

文字を「ことば」に変換して初めて理解しているのです。


ある種の障害によって文字を「ことば」に変換できない人がいるそうです。

その人は文字を読むことは出来ても読んで理解することができないそうです。

ところが同じ文を誰かに詠みあげてもらうと理解することができるのだそうです。


「ことば」で脳の機能を発達させてきた子どもが、文字と「ことば」の変換ができるようになるのが7歳前後だと言われています。

幼児期に文字を教えても、文字を読むことは出来ても「ことば」としての理解はできていないことになります。

幼児期に文字を教えることは無駄な活動と言えるのでしょうね。


文字が「ことば」を示す記号である以上文字そのものに意味はないことになります。

その記号が「ことば」と結びついた時に初めて「ことば」としての意味につながっていくことになります。

頻繁に同じ記号と同じ意味が使用されていると、「ことば」への変換過程が省略されてしまうことが起きます。

文字=意味と短絡化されてしまうことが起きます。


「ことば」はいろいろなニュアンスによってさまざまな意味を持っています。

記号とひとつだけの意味が強固に結びついてしまうと、あたかも文字=意味のように見えてしまうようになります。


「ことば」は「ことのは(事の端)」でありあるもののほんの一部を音として表しているものですので、象徴的な代表的な意味はありますが一つの固定的な意味として限定されているものではありません。

また、「ことば」は一人ひとり違ったニュアンスや感覚を伴って存在しているものですので、同じ「ことば」によって共通的な理解をできることもあれば異なった理解となる場合もあるのです。


あまりにも画一的な環境に長いこと浸っていると、使われる文字も「ことば」も理解する内容も同じパターンのものが繰り返し行なわれることになります。

いつの間にか文字=意味という感覚になってしまうことになります。


さらに、日本語の使用されている文字には漢字があります。

漢字は現存する文字のなかで唯一の表意文字だと言われています。

単なる記号である文字が意味を持っていることになります。


これはとても厄介なことになります。

文字としての漢字が持っている意味と「ことば」が持っている意味の二つが存在することになります。

文字の持っている意味は目に見える形にたいして与えた意味ですので固定的なものとなっており、限定的なものとなっています。


「ことば」としての意味はあるもののほんの一部を音として表したものですのである種無限の広がりを持っています。

この両者が一緒であるはずがないのです。

「ことば」として理解しようするときには文字と持っている意味が邪魔になることが多くなるのです。


反対に文字自体が意味を持っていることによって、安易に文字が「ことば」にとって代わってしまって直接的に意味を限定してまうことが起こるのです。

漢字が広がることによって「ことば」の意味が漢字の意味に置き換えられてしまうことが起きたのです。


文字がなくなっても「ことば」はなくなりません。

「ことば」を教えるのではなく文字を教えようとします。


日本語の「ことば」は1500年以上かけて発展して受け継がれて現代に伝えられているものです。

記録された文字ではない「ことば」を伝えていきたいですね。