2015年9月16日水曜日

文字と言葉(3)

文字が「文」と「字」から成り立っていることを先回見てみました。
(参照:文字と言葉(1)

今回は言葉について見ていきたいと思います。


言葉が「ことのは」から来ているものであることは様々な史料で確認できることではないでしょうか。

文字という「ことば」は文字の存在しなかった「古代やまとことば」の時代にはなかったものだと思われます。

実際の文字が文字が存在して初めて「ことば」としての「文字」が誕生したのだと思われます。


それに比べると「ことのは」は文字のない時代の「古代やまとことば」その物だと思われます。

「万葉集」にも「古今和歌集」に登場してくる「ことば」です。

古今和歌集以前の記録の表記は漢語の音を利用してやまとことばを表したものであり、いわゆる借字によるものとなっています。

同じ音を表すにも複数の漢語が用いられていたりします。


その中で「こと」を表すために使われた漢字は「言」と「事」です。

そして「ことのは」の「は」を表したものは「葉」「端」「羽」などがあります。

「ことのは」の意味していることは「こと」の一部であるということではないでしょうか。


やまとことばの原意を探るために使用されている漢字から推測していくという手法を試みています。

音だけしかなかった「古代やまとことば」に充てられた漢字は、その漢字の意味するものとかなり関係があるものであると思われます。

複数の漢字が充てられれいる場合には、それらの漢字に共通する感覚から原意を推測することが可能であると思われます。


「葉」「端」「羽」などから推測されることはある者の一部であり、しかも全体を説明し得るには難しいものと思われます。

「言」と「事」は共に神と人との関わりにおいて使用されてきた「ことば」であり、神と人との意思の疎通を意味するものであったと推測されます。
(参照:「こと」(言と事)

広い意味では神とのコミュニケーションにおいては同じことだと言ってもいいのではないでしょうか。

「ことだま」や「ことあげ」で見ることができた「こと」とおなじことが言えると思われます。


すなわち「ことのは」は「こと」のほんの一部を意味することになります。

古代のやまとことばを使っていた人たちは、「ことば」が表せることの限界を知っていたのではないでしょうか。

限界というよりも、「こと」のすべてを「ことば」で表すことは出来ないと感じていたのではないでしょうか。


現実の音としての表している「ことば」も「こと」を理解するための一部を表現しているものであることを気づいいていたのではないでしょうか。

文字はその「ことば」をさらに記号化したものである以上、「ことば」を表し切れているものではありません。

「ことば」のさらに一部を象徴的に記号化したものでしかないことになります。


「ことば」絶対的な意味を持ったものではなく「こと」を想像させるためのきっかけとしてその一部を何らかの形で表したものと言えるのではないでしょうか。

現わした部分は典型的な特徴かもしれませんしほんの一部かもしれませんしぼやっとした全体感かもしれません。

それも「こと」によってどんな部分が表されているのかわからないのではないかと思います。


「こと」が神と人とのかかわりにおいて存在していることになりますので、同じ「ことのは」で表わされるものであっても「こと」については一人ひとり異なることなります。

ましてや「言」は他の人には聞かせることなく神に対してのみ伝える本当の「こと」を意味しているものと考えられています。

結果として同じ「こと」に結びつくことはあるかもしれませんが、「ことのは」によって導かれる「こと」は環境や人によって違うのが当たり前ということになります。


現代で使用されている漢字の感覚を取り入れて「こと」のもっている広さや大きさを表現してみると以下のようになるのではないでしょうか。

文字 < 言葉 < ことば < こと


日本語は言葉だけでは伝えきれないものがあることを理解している言語です。

相手から受けた言葉を言葉通り、額面通りに受け取ることはむしろ少ないと言った方がいいかもしれません。

しかし、言葉がきっかけとして存在しなければ「こと」を理解することも不可能です。

欧米先進文化圏の現代言語は、言葉による表現を絶対的なものとして現実の言葉となったものものだけを対象としています。


文字が「ことば」を表すための記号である以上、文字だけで「こと」を理解することは不可能です。

更には、漢字という文字自体が意味を持ったものはそれだけで、文字としての意味と「ことば」としての意味の二重性を持つことになります。

「古代やまとことば」の意味するところを現代から推測するには意味の持った文字である漢字で表現することはとても役に立ちます。


しかし、「ことば」のもつ本当に伝えたいものを理解するためには文字である漢字が持っている意味が邪魔をすることが考えられます。

文字は言葉を導くための記号であることを考えて使いたいですね。

文字で考えて知的活動を行なっているように見えて、人の知的活動はすべて「ことば」で行なわれていることを再確認する必要があると思います。

その機能は、文字を知らなかった幼児期に母親から伝承された母語という「ことば」によって作られてきたものです。

「ことば」によって行なう知的活動が一番効率がよく質が高いのは当たり前なんですね。


きっかけとしての文字であることを覚えておくと何かと振り返りやすいかもしれません。

文字倒れになっている現代にこそ「ことば」についてしっかりと認知しておく必要があるのかもしれませんね。