日本語の持っている基本的な感覚は文字のない時代から継承されている「やまとことば」によって作られていると思われます。
この基本的な感覚を知るのに邪魔しているものがあります。
そのおかげで、現代日本語からは日本語が持っている基本的な感覚が見えに難くなっていると思われるのです。
それは明治期に大量に作られた音読み漢字の熟語ではないでしょうか。
「ことば」が「ことのは」から来ており、音として「ことば」として認知していることについては幾度か触れてきました。
(参照:「ことのは」を探る)
日本語の「ことば」としての基本になっている音は、漢語のいわゆる音読みの音ではなく「やまとことば」として独自の言語として継承されてきたひらがなことばであり漢字の訓読みことばであったのです。
明治期には西欧の先端文明や技術を取り入れるために大量の言葉が生み出されました。
広辞苑一冊にも相当する20万語以上が生み出されたと言われています。
そのほとんどが漢字の熟語として翻訳されました。
これらの漢字(熟語)は和製漢字として中国へも逆輸出され、近代中国の発展に大きく貢献してきました。
(参照:和製漢字のチカラ)
現在使われている世界中の文字のなかで唯一の表意文字と言われる漢字は、文字自体が意味を持ったものとなっています。
文字の持っている意味とその文字によって表わされる「ことば」の意味が同じ場合は全く問題がないと思われます。
ところが明治期に行なわれた西欧文化の導入は、とてつもないスピードを持って行なわれました。
一日でも早く西欧の文化技術に追いついて対等の交渉ができるようにならないと植民地となる危機でもあったからです。
そのために外国語として持っている原意と微妙に異なった意味を持った漢字が充てられていることが少なくありませんでした。
鎖国によってほとんど海外の情報に触れることがなかった人たちが感じた外国語の感覚や意味は、受けた人の分野や能力によってさまざまな解釈がされたのではないでしょうか。
同じ言葉についても軍事、貿易、政治、文学の世界ではそれぞれ異なった解釈がされたとしても何の不思議もありません。
もともと「やまとことば」として存在していた言葉であれば、そのまま使われたと思われます。
「やまとことば」としての言葉がないために新しい言葉を生み出さなければならなかったのではないでしょうか。
言葉を作ることにかけては漢字はとても便利な文字です。
対象とするものの特徴の一部やイメージを表すことができる文字を充てることで、その文字を構成する音で言葉を作ることができるからです。
そこでは、日常的に馴染みの薄かった仏教の専門用語や他の漢字からの借用も多く行なわれました。
とくに熟語の構成は以下のようにかなり自由度があるために非常にたくさんの言葉が生まれることになりました。
ア、同じような意味の漢字を重ねたもの {岩石、生活}
イ、反対または対応の意味を表す字を重ねたもの {高低、上下}
ウ、上の字が下の字を修飾しているもの {洋画、新車}
エ、下の字が上の字の目的語・補語になっているもの {着席、投資}
オ、上の字が下の字の意味を打ち消しているもの {非常、無限}
「やまとことば」としての理解をしようとするときに邪魔な存在になるのが漢字の持っている文字としての意味となっていることが多いのです。
漢字から「やまとことば」としての感覚を読み取る場合には、漢字 → 言葉 → ことば(ことのは)→ こと、を行なう必要があります。
(参照:文字と言葉)
「ことば」(ことのは)への変換は音読み漢字からは出来ません。
漢字を訓読みとして理解してひらがな言葉にしなければならないからです。
この「ひらがなことば」としての音が「やまとことば」が本来持っている音なのです。
日本語が持っている感覚を共有するためには「ひらがなことば」で理解する必要があるのです。
この作業は、実際にやってみるととても難しいことが分かります。
いかに、「ことば」としての意味をしっかりと理解しないで音読み熟語を使っているのかがよく分かります。
音読み熟語を「ひらがなことば」で説明してみればいいことなのですが、意外とこれができないのです。
ひらがなで説明しているつもりが思わず他の漢字の音読みを使っていたり、説明しているうちに自分で理解していないことが分かってきたりします。
音読み熟語を「ひらがなことば」にするには、まずは使われている漢字をすべて訓読みで読んでみることです。
そして、その訓読みが元の「ことば」をしっかりと現わしているのかどうかを確認することが大切になります。
現在使われている「ひらがなことば」が明治以前から使われていた「やまとことば」かどうかは判断は難しいです。
明治以降に作られた言葉であっても「ひらがなことば」として定着しているものはあります。
これらは現代的な「やまとことば」としてもいいのではないでしょうか。
つまりは、現在日常的に使用されている「ひらがなことば」は「現代やまとことば」と見てもいいのではないでしょうか。
「現代やまとことば」のヒントは漢字の訓読みです。
訓読み漢字は確かに文字としての漢字を利用してますが音としては「現代やまとことば」だからです。
文字としての漢字が示している意味と、その「ことば」が持っている意味が異なっている熟語がたくさん存在しています。
漢字で表現された表面的な意味で済んでしまう場面もたくさんあります。
文字が意味を持っていますので何かを表す記号としてはとてもわかり易いものになっていることが多くあります。
そこには、「ことば」として持っている意味や感覚を必要としていない場面ではとても有効に働きます。
効率を重視し生産性と精度を求める場面においては、専門用語として共通理解がしやすいものとなっているのかもしれません。
でも、それは「ことば」ではないのです。
効率を重視し生産性と精度を求める典型的な場面が軍隊です。
軍隊で使用される言葉はすべての人が同じ理解をできなければなりません。
たった一つのことを表すための専門用語としての記号である必要があるのです。
これは「ことば」ではありません。
精神文化の対極にあるものではないでしょうか。
日本語の理解は「ことば」によってなされているものと言えるのではないでしょうか。
「ことば」として理解するためにはひらがなとして理解する必要があると思われます。
そのきっかけとしての訓読み漢字は、漢語と「やまとことば」の翻訳そのものだと思われます。
文字だけ見れば漢字(漢語)です。
音だけ聞けば「やまとことば」です。
ほとんどの訓読み漢字はひらがなの送り仮名を伴っているのも「ひらがなことば」を意識できることになりますね。
「現代やまとことば」を駆使することによって、日本語の基本的な感覚に触れることができるのではないでしょうか。
「現代やまとことば」で説明された内容は抵抗なく素直に理解できるものとなっています。
賛否や批判はそのあとに生まれる活動ですので、理解できることがまず一歩目となるのではないでしょうか。
「わかり易く説明してください」と言うことは「現代やまとことばで説明してください」と言っていることではないのでしょうか。
「現代やまとことば」、かなり利用価値がありそうですね。