人は一人ひとりがそれぞれ異なった感覚持っているものとなっています。
それでも同じような環境で生まれ生活をしていけば似たような感覚を持っていることも間違いのないことでしょう。
生まれてからの環境が全く同じ人など存在しないわけですから、一人ひとりの感覚が全く同じであることはないと思われます。
その環境の中でも感覚を形成する一番大きな要素が母語として持っている言語ではないでしょうか。
私の母語は日本語です。
日本語を母語として持っている人は1億人を超える数だけいます。
しかし一人ひとりの感覚は微妙に異なっており、それは一人ひとりの母語としての日本語が異なっているのと同じことではないでしょうか。
それでも、母語として英語を持っている人たちに比べるとその違いには共通性があると思われます。
それが言語の持っている基本的な感覚によるものではないかと思っています。
知的活動のための唯一最高のツールが言語であることによって、知的活動としての言語の使い方については教育を受けることになります。
社会が複雑化していくほど様々なルールがないと共同生活が難しくなります。
細分化された社会は、一人で生きていくことは不可能になりますので他者とのかかわりが多くなります。
コミュニケーションは知的活動になりますので、より細密なコミュニケーションのためにはより共通性を持った言語が必要となります。
社会生活を営むために必要な最低限の言語が初等教育によって行なわれていることになります。
言語の持っている基本的な感覚の違いは知的活動の結果としての行動にも現れることになります。
それはその言語を母語として持った人たちの特徴として捉えられるものとなっているのではないでしょうか。
日本語を母語として持っているが故の、特徴的な知的活動やそれに基づく行動が表面的な日本人の特徴として取り上げられていることではないでしょうか。
様々な理由から日本語は世界の数ある言語の中でも極めて稀な発展の仕方をして継承されてきました。
しかも、日本語の原点と思われる1500年以上前に存在した「やまとことば」が、今でもそのままの姿でも理解されるような形で継承されてきているものとなっています。
それは、文字のなかった時代に音だけで表現された「ことば」であり継承されてきたものです。
漢語の導入によって音を表記するための文字である「ひらがな」を獲得した「やまとことば」は、形を変えながらも記録をされながら音としての「ことば」と共に継承されてきています。
漢語という外来語による表現を取り入れながらも、現代日本語の基本となっている「ことば」は「やまとことば」であることは間違いのないことだと思われます。
時代の変遷とともに表記や音に多少の変化があったとしても、1500年前の記録を現代の言語で読み取ることが可能な言語は奇跡的な存在ということができるでしょう。
知的活動の道具としての言語技術についての教育を受け身につけ使用することはあっても、その言語を持っていることに必然的に備わっている感覚については知る機会すらないのが現状ではないでしょうか。
テクニックとしていかに言語を使いこなしたとしても、その根底にある言語が持っている基本的な感覚が変わることはないと思われます。
それどころか、その言語を使っている以上は常にその感覚に影響を受けていると考えたほうがいいのではないでしょうか。
感覚という表現を使用していますが、自分自身でももっと適した言葉がないのか自問自答の日々となっています。
"文字と言葉"で述べてきたような「ことば」という表現の方がしっくりくるような気がしていますが、敢えてひらがなの「」付きで表現することの意味(感覚)を説明することが上手くできていないのも現実です。
(参照:文字と言葉)
やまとことば研究所というページに興味をひかれる内容がありました。
そのまま引用してみます。
日本語の50音には、
1音1音、「意味」があります。
しかも、1音に対応する「意味」には幅があり、
180度正反対の「意味」を含みます。
例えば、
「ひ」は、
「火」を意味することもあれば
「氷」を意味することもあります。
熱い「火」と、冷たい「氷」では
180度正反対の「意味」になりますが、
やまとことばでは、どちらも「ひ」で表します。
つまり、
やまとことばでは、
1音=一義となりません。
文字のなかった「やまとことば」の音の一つひとつに意味があったことはわかり易いことだと思います。
意味のある音の組み合わせが「ことば」を作っていったと思われるからです。
初めのやまとことばは単純母音の「あ」か「う」の一音ではなかったかと想像することは、それほど無理があるとは思えないことです。
一つの音に正反対の二つの「意味」があったとする内容は、何度も見てきた日本語の成り立ちや持っている感覚するととても納得しやすい説明です。
不変の固定的な感覚を善しとしないで常に変化する偏らない中庸のなかで自分自身をも固定しない日本語の感覚をとてもうまく説明しているものではないでしょうか。
yes/no 型の欧米型言語の感覚から指摘される曖昧さの根源に近い気がしています。
どんなに明確に表現しようとも日本語である以上は必ず現れてくる感覚だと思われます。
音の一つひとつの「意味」に正反対の二重性を持っているとすれば、その音によって表されているあらゆる「ことば」は常にその二重性を含んだものとなっているはずです。
漢語という一文字ずつがそれだけで意味を持った文字から、敢えて文字としての意味を持たない音を表すだけの「ひらがな」を生み出す必要があった理由が見えるのではないでしょうか。
意味を持った文字は、文字として表記されることによって音としての「ことば」を失って文字としての意味が前面出でることになります。
音として読めなくとも文字によって意味が限定されるからです。
限定された意味を持った文字は使用される場面が限定されていくことになります。
文字としての便利さは文字そのものが意味を持った表意文字であるほうが単に音を表す表音文字よりも高いことは明らかだと思われます。
現実として、日本語における漢字の使われた方は表意文字としては勿論ですが表音文字としても使われています。
遥かに文化の進んだ国から来た表意文字をそのまま生かすことなく、敢えて表音文字である「ひらがな」を生み出したことは音としての「ことば」に文字が表す以上の「意味」があったからではないでしょうか。
そこからは、もう一種類の表音文字である「カタカナ」までも生み出しているのです。
明らかに使用目的が異なった文字であるはずです。
「ひらがな」が現れて以降は女性やこどもの使う文字として広がっていきました。
漢字は一部のインテリや公式文書として使用されるものとなっていきました。
誰でもこどもの時期を経験します。
その時のコミュニケーションの多くは母親である女性です。
基本的な「ことば」や文字として「ひらがな」が身につくのは当たり前のことではないでしょうか。
漢字は社会の一部の専門文字であり一般の家庭における会話や文字は「ことば」であり「ひらがな」であったのではないでしょうか。
現代日本のように一気に漢字が一般的に使用されることになったのが明治期以降になります。
押し寄せる外来語の翻訳が漢字によって大量に生み出されていったのです。
(参照:日本語にとっての明治維新)
それでも漢字だけでは日本語は成り立たなくなっていたのです。
文章の基本はひらがなによってつながれた漢字という外来語によってなされていたのです。
外来語同士の関係や文章の流れや意味はひらがなが作っていたのです。
語尾の変化や副詞や助詞はひらがな抜きでは存在することすらできません。
言葉は増える一方です。
漢字だけではなくアルファベットやその他の記号・略字など果てしなく増えては消えていくことでしょう。
しかし「ことば」は基本的な音とともに正反対の「意味」を含んで存在し続けていくのではないでしょうか。
当たり前に日常的につかっている「ことば」こそ、いちばん日本語の感覚が現れているのではないでしょうか。
「ひらがな」を教わったこと自体、ほとんど覚えていないと思います。
あっという間に漢字の書き取りが始まった気がしています。
日本語の基本的な感覚は「やまとことば」から来ているものだと思います。
その「やまとことば」に直接つながっているのが「ひらがなことば」ではないでしょうか。
漢字の多い文章は見ただけでも嫌になります。
読ませて理解しろというものだからです。
音として発してしまえばすべてが「ひらがな」になってしまいます。
そのひらがなの音で「ことば」になっているものにこそ逃れようのない日本語の感覚が込められているのではないでしょうか。
漢字をいくら使いこなしても、基本的な母語として持っている日本語の感覚から抜け出せません。
日本語の感覚からしたらおかしなものになっていることの方が多いのではないでしょうか。
もっと「「ひらがなことば」に目を向けてもいいのではないでしょうか。
表面的な解釈に振り回されないためにも。