2015年11月17日火曜日

共通性の発見で安心する日本語感覚

日本語を母語として持っている人の感覚として、お互いの違いを見つけることよりも共通性を見つけることに意識が向くことが挙げられます。

ささやかなことでも共通性が見つかるとそれをきっかけに急に親しくなった感覚を持ってしまうことがよくあります。

出身地や生まれ年などは典型的な例ですね。

初めて出会った人に対しての恐怖や不安感は誰にでもあるものですが、その対象を認識するのに二つの感覚があると思われます。


一つは、できるだけ味方として認識しようとする感覚であり、もう一つは敵として認識しようとする感覚です。

これはその民族が生きてきた精神文化に大きく影響を受けていることだと思われます。

その精神文化が大きく反映されているものがその民族が母語として継承してきた言語になります。


したがって、母語として持っている言語の違いは単なる語彙や文法や文字種による違いよりもその言語が継承されてきた精神文化による感覚の違いに大きく現れていることになります。

母語として持っている言語の違いは人としての感覚の違いとなって現れていることになります。


人の知的活動のすべてが言語によって行なわれているために、人のあらゆる活動はその言語の持っている感覚によって影響を受けていることになります。

そのひとつの表れが、初めて出会った人に対する不安を解消するときの活動にも現れているのではないでしょうか。


初めて出会った人を味方として認識しようとする感覚は、他の民族などからの侵略によって皆殺しなどの生死の危険をあまり経験したことのない言語に現れています。

共同体的な活動の歴史が長く、生死に対する最大の恐怖が自然環境でありその変化に対して共同して対応してきた言語の感覚になります。

外部からの侵略を受けずに来た島国や他の民族との交渉を絶ってきた民族の言語に見られる傾向になります。

人は最大の恐怖である自然に立ち向かうための協力者であるという感覚が根底にあるのではないでしょうか。


一方、初めて出会った人を敵として認識しようとする感覚は、他民族による侵略や皆殺しの経験をしてきた言語に見られる傾向です。

「人を見たら泥棒と思え」の極端な感覚となるのではないでしょうか。

同じ人に対しても、敵か味方かの判断は瞬間的に生死を左右こととなります。

そのために、安全策としてまずは敵として認識することの方が生き残る可能性が高くなります。


いったん敵として認識するとその次に行なわれることは、彼我の力の比較です。

どこが違っていてどちらの方が優位にあるのかと言うことになります。

この判断を間違えると生き残れる可能性が低くなってしまいます。


敵と認識する以上は戦うことが前提となります。

こちらの優位にあることで戦うことの方が生き残る可能性が高くなります。

どこからどう見ても相手の方の優位しか見つけられない場合は、戦うことよりも逃げることの方が生き残る可能性が高くなります。


したがって、初めての出会いにおいて敵と認識する感覚を持った言語では、互いの違いに焦点が行くことになります。

その違いに対してどちらが優位であるのかを判断することを感覚として持っていることになります。


日本語の感覚は相手に対して共通性を見つける感覚です。

そこには程度の差がありません。

差を知る必要がないのです。

共通性の発見によって味方としての認識をしたいからです。

そして共通性が見つかることによって味方としての認識をして安心をしたいからです。


日本の戦後の社会は戦勝国の欧米の感覚を持って作られてきました。

教育も同じようにように欧米の感覚を植え込まれてきました。

しかし幸いにも言語は日本語のままだったのです。

これが現実社会と個人の感覚とのギャップを内在することになったのです。


社会や教育で欧米の感覚を押し付けられても、そもそも持っていいる基本的な感覚が異なっているのです。

無理に合わせようとすれば精神的なストレスとなっていくのです。

共通性を見つけて安心して共同して活動していくことに対して一番安心して取り組める感覚を持っているところに、差別化による競争意識と個別優位性の基準を持ってきても安心して取り組めないのです。


味方と認識したくて取り組みますので、相手を理解することにおいてはとても得意なことになります。

したがって、社会の構造も教育の体系も理解して取り組むことは出来るのです。

しかし、持っている基本的な感覚が異なりますので最後の活動のところでは否定することになるのか、それができない環境であるならばイヤイヤ従うことになるのです。


一緒、同じと言う感覚がもたらす安心感は、欧米型の言語感覚では理解できないのです。

反対に彼らは、相手に対して絶対な優位いにいるという安心感は何物にも勝る感覚となっているのです。


日本語の感覚によるボランティアは共感による共同体活動に駆り立てられる感覚が中心となっているのです。

だから、ボランティア応援には一切の差別感覚がなく共同作業が可能となっているのです。


彼らの言語感覚におけるボランティアは、優位にいる者による施しなのです。

ボランティアを受ける側に対して明らかに優位にいるという感覚からなされる行為になっているのです。

そこには、地位や名誉や経済的な面やいろいろな基準が存在しています。


人が亡くなった場合においても、日本語の感覚では残された遺族の悲しみを共有共感することから始まります。

彼らの多くは自分よりもの不幸になった者に対して相対的優位な立場にいることから始まるのです。

いい悪いではないのです。

母語として持っている言語の基本的な感覚がそうなっているのです。


優位を明らかにするための基準や論理は単純明確です。

とてもわかり易いものです。

だから彼らの論理はわかり易く、日本語になっても理解できます。

ところが、その基本的な感覚が大きく異なっていますので、理解できても日本語の感覚では彼らと同じ行動にはならないのです。


欧米での新しい論理や伝統的な考え方が日本にも紹介されてきますが、とても理解しやすいものがほとんどです。

しかし、日本語の感覚による行動には合わないのです。

無理に合わせていくとストレスがたまっていき破綻することになります。


盛んに取り入れられた欧米型の経営やマネジメント手法が今は見る影もありませんね。

無理やり根付かせた企業では、産業医やカウンセリングの出番が多すぎて困っているところもあるようです。


母語としての言語が持っている感覚は生涯変わるものではありません。

自分自身の生涯の感覚です。

気づいているのといないのでは大きな違いとなってきそうですね。


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