2013年10月15日火曜日

和製漢語の創出

ヨーロッパの文明を急いで取り込まなければ、列強の圧力に屈して植民地化されてしまう危機感のあった明治維新では新文化の導入のために次から次へと新しい言葉が作られていきました。

漢字のもつ造語力の高い能力がそれを可能にしたのです。


夏目漱石などはその急ぎ方に「そんな安普請で文化を作っていいのか」のようなことも言っています。

漢字で対応したその結果、古来の日本語(やまとことば:話し言葉)はひらがなとして侵略されることなく、ほとんどそのままの形で残すことができました。

このことは先進文化を取り込んだ時には、ことばも取り込まれてしまうという定説を覆した、一つの奇跡とも言われます。

ひらがなと漢字という、まったく異なる2つの言語体系(カタカナを入れれば3つ)をもっている日本語が、この奇跡を可能にしたのです。


この時つくられた漢字が新漢字と言われたり和製漢語と言われたりするものです。

大きくは2種類の作られ方をしました。

一つは単漢字の意味を組み合わせて、対象に合う意味にするために新しい組み合わせ(熟語)を作ったものです。

「科学」「哲学」「野球」「郵便」などです。


もう一つは今まであった漢字の組合せ(熟語・単語)なのですが新たな意味を与えたものです。

「自由」「権利」「演説」「観念」「革命」

これは特に仏教用語などの専門語をヨーロッパの概念を表す言葉として使うために、もともとの意味を変化させていったものが多いようです。

導入を急いだがために、微妙なニュアンスの違いが残ったままのものもありました。
(参照:百年たって微妙なズレが現実に・・・


やがて、明治以降になりますと中国でも文明開化を成功させており、魯迅などの多くの留学生が日本に来るようになりました。

彼らにとってはヨーロッパ文明に触れる一番身近な存在がの日本だったのではないでしょうか。

この時に、彼らにとってもヨーロッパの物や概念を取り込むのに一番役に立ったのが和製漢語だと思われます。


これらの言葉は見た目は同じ漢字として、今度は中国に逆輸出されることになります。

かなりの言葉が逆輸出され今につながっていますが、見た目が同じであるため時間がたつほど和製漢語とは意識されなくなってきています。

現在使用されている漢語のうちでも10%くらいは和製漢語だと言われています。

中国の人でも和製漢語とは知らずに使っている人が大半ではないでしょうか。


いくつかの例を挙げてみましょう。

中華民国は孫文の辛亥革命(1911年)で誕生したのですが、当初孫文は清朝打倒の行動を「造反」という言葉で呼んでいました。

しかし、日本の新聞が「孫文の支那革命」と書いた記事が 目に留まって「これだ!」と叫び、「今後はわれらの行動を『革命』と称することにする」と決意したとのエピソードがあります。

そして、辛亥“革命”という名前になったわけです。


更には国の名前があります。

「中華人民共和国」の言葉の中でもともとの中国の言葉は「中華」だけです。

「人民」も「共和国」も和製漢語です。

こういうことをお互いが認識して、共同文化の発展を考えれば尖閣のようにこじれた問題にはならないのではないかと思いますね。


また、国の定めごとの基本中の基本である法律の「憲法」も和製漢語であり、中国に逆輸出された漢字の一つです。


和製漢語を分かる範囲でランダムに挙げてみます。

意識、右翼、左翼、運動、共和、失恋、進化、接吻、唯物論、電灯、電報、電話、失恋、進化、文化、文明、民族、思想、法律、経済、資本、階級、理性、感性、意識、主観、客観、物理、化学、分子、原子、質量、固体、時間、空間、理論、文学、美術、喜劇、悲劇、社会主義、共産主義 など


中国においては独自のヨーロッパ文明の取り込みもあり、和製漢語と中国漢語がぶつかる場面もありました。

また、和製漢語の導入に積極的だった魯迅、梁啓超、孫文、毛沢東らに対して、和製漢語の導入を「亡国滅族」とする彭文祖のような人がいたこともわかっています。


最後に敬意を表してこのころに和製漢語を編み出したといわれている人たちを挙げておきたいと思います。

福沢諭吉、西周、杉田玄白、中江兆民、森鴎外、夏目漱石などです。

まだまだたくさんいるはずですが、一生懸命新しい漢語を生み出したことが、結果として古来よりの「やまとことば」をひらがなとして守ることになりました。

先人たちの努力に感謝です。