2014年8月11日月曜日

「ことだま」と「ことあげ」

ここ何回かにわたって、「ことだま」について見てきました。

「ことだま」について一番わかりやすい史料は万葉集です。

敢えてひらがなで「ことだま」と記しているのも、その影響を考えてのことです。


万葉集には「ことだま」という音で読むことができる言葉が二つ出てきます。

一つ目は、柿本人麻呂が表現したとされる「事霊」(ことだま)であり、もう一つが山上の憶良によって表現された「言霊」(ことだま)です。

どちらの言葉も何回も出てきます。


やまとことばから漢字への流れにおいては、文字のなかった「古代やまとことば」を文字表現したときに、より具体的にしたものが漢字で表現されたものとなっています。

したがって、音が同じ言葉であれば「古代やまとことば」としては同じものとして扱われていたことがわかります。

「かく」という漢字は、書く、描く、掻く、画く、欠く、などがありますが、ここから「古代やまとことば」としての「かく」が使われていたニュアンスを推し量ることができます。


「ことだま」が用いられている表現に多い例が「やまと」や「我が国」などという日本とのいう意味の言葉と一緒に使われていることです。

敢えて日本という国や地域を意識して「ことだま」が使われていることを考えると、当時であっても自分たちの中に「ことだま」については他の国にはない独特の感覚であることを感じていたのではないでしょうか。


「ことだま」を考える時に、一緒に考えておかなければいけない言葉があります。

それが「ことあげ」です。

「言挙(げ)」などと表現したりします。

一部の解釈としては、神道における宗教的教義や解釈を「ことば」によって行うことを意味するものとされていますが、もっと広い意味で考えたほうがいいようです。

現代神道では「神道では言挙げせず」ということもあるようです。


「ことだま」という感覚は、一つひとつの言葉を大切にして現実の言語としての言葉だけではなく、その音や文字から導かれる「こと(事)」の領域へ移れることを意味します。

そのためには、多言は「ことだま」のチカラを弱めることになり、言葉を使いすぎることによって慢心が生まれることになります。

「言挙げ」が初めて登場するのが古事記においてです。

伊吹山の神を討ち取りに出かけたヤマトタケルが白猪に遭い、「これは神の使者であろう。今殺さず帰る時に殺そう」と「言挙げ」する場面があります。

このヤマトタケルによる言挙げがその慢心によるものであったため、神の祟りによって殺されてしまったと言うものです。


「言挙げ」とは、自分の意思をはっきりと「ことば」に出して言うことであり、その言葉が自分の慢心から発せられた場合には悪い結果がもたらされるとされるものです。

「ことば」とは現代使用されている「言葉」よりの広義の意味を含んであおり、やまとことばとして身振りや態度など音声以外の物を含んだものとなっていると思われます。


とても日本らしい戒めではないでしょうか。

「ことだま」に頼ることになると、「ことば」が氾濫します。

しかし、ひとことずつ真剣に選び抜かれて真摯に発せられる「ことば」でないと、「ことだま」の領域にはいけないということです。

自分の欲望や慢心から発せられる「ことば」は、「言挙げ」として何らかの悪い結果をもたらすものとなります。

また、「ことば」が多いことが慢心を呼ぶこととしての啓示ともとることができます。


決して多くを語らず、選び抜かれた「ことば」による「ことだま」の領域を感じることで、現実の言葉以外の「こと(事)」を互いに理解することができる感覚になるということではないでしょうか。

そこには自己の欲望や慢心を「ことば」として発してはならないという、「言挙げ」の戒めがきちんと備わっているのです。

「ことだま」が多く取り上げられている万葉集においても、柿本人麻呂の歌の一部に以下のようなものがあります。

 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国(現代語表示)


「ことだま」を詠った人麻呂自身が「言挙げ」について述べているのです。

日本人は今でも、自己主張の多い者を嫌います、言葉の多い者を嫌います、自己の欲望や慢心を発する者を嫌います。

言葉少なに自然と同化する者を好みます、無言で意思の通じ合うことを尊びます、置かれている環境を斟酌することを尊敬します。

この感覚は、はるか昔から「古代やまとことば」の音を通して、ずっと継承されてきているのではないでしょうか。


現代でのテクニックにおいては「言挙げ」ばかりが取り上げられていると思います。

特にプレゼンテーションにおいてです。


スティーブ・ジョブズの有名なプレゼンテーションに魅せられた人も多いと思いますが、違和感を感じられた人もいることがわかっています。

実は、英語の感覚がわかる人が、ほとんど英語で理解できる場合には、何の違和感も感じることなく受け入れることができるようです。


どんなに素晴らしいモノや画期的なモノであっても、本当にその価値があるモノであっても、多くを語られると拒否してしまうことが増えます。

日本人は物に対しての執着があまりありません。

物に対しての評価は、人に対しての評価よりもはるかに下位にあります。

次元が違うと言った方がいいかもしれません。


自然に存在するモノに対して敬意を持って接するようになっているようです。

そこに神の存在を感じるようになっているのかもしれません。

物や理論を理解することよりも、その人を理解することに感覚を研ぎ澄まします。

そのために、「ことだま」の領域感覚が大いに活用されるのではないでしょうか。


このものすごい無意識のチカラには、それをきちんと使うための戒めがちゃんと用意されていたのですね。

「言挙げ」にならないように意識することが、「ことだま」を自然な感覚で生かせることにつながるようです。

しばらく意識してみませんか「言挙げ」。




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