2015年2月1日日曜日

きき方の違い

日本語と欧米型言語の感覚の違いには、これまでも何度となく触れてきました。

また、その感覚の違いが、それぞれの言語の歴史における、自然との関わり方の違いからきていると思われることについても触れてきました。
(参照: 言語とものの考え方 )

この感覚の違いは、きき方にも現れてきます。


欧米型言語の感覚に基づくきき方は、他者との違いを明確にすることにあります。

言い方を変えてみると、自分との違いを見つけるためにきいていることになります。

そのために彼らのきき方は、論理を理解することが中心になります。

もちろん、論理を理解する前提としての、言葉をきき取ることができなければいけませんが、その点についてはどんな言語においても同じことです。


彼らの社会では、生きていくための基本がクリティカル・シンキングにあります。

そのために、義務教育における最大の目的が、クリティカル・シンキングによる表現力を身につけることになっています。
クリティカル・シンキングは論理を理解することから始まります。

そして、自他の論理の違いを明確にして、自己の論理をより強力に展開して行くことになります。

したがって、きくことの目的は、自分の論理との違いを明確にするために、相手の論理を理解することになります。

その結果、敵か味方か(賛成か反対か)の判断につながることになります。



日本語の感覚においても、相手を理解するためにきくことは同じと言えます。

しかし、日本語の感覚においては、理解する内容が異なります。

欧米型の言語の感覚が、相手の論理を理解しようとすることに対して、日本語の感覚においては相手がいる環境と相手との関係を理解しようとすることが中心になります。

論理を理解することよりも、相手がその論理を展開している環境において、どんな位置づけにいるのかを理解しようとするのです。

その環境と相手の位置付けを理解することによって、相手の意向を理解しようとするのです。


そのためには、どんな環境にいる、あるいはどんな環境にいたいと思っているかを理解する必要があります。

それは決して考え方や意見が同じになるということではありません。

環境が違えば、考え方や意見が違って当たり前なのですが、違う理由が理解できるという感覚だと思います。

反対に、相手の環境やそこにおける位置付けを理解することなしに、意見の一致を見たとしても安心できないのです。


もちろん、欧米型減の感覚にも環境の理解や相手の位置付けの理解はありますが、論理を理解することに比べるとはるかに小さな扱いとなっています。

日本語の感覚にも言葉や論理を理解することがありますが、相手の環境や位置付けを理解することに比べるとはるかに小さなものとなっています。

双方ともにそれぞれの要素も持っているのですが、中心となるきき方が異なっていると言えるのではないでしょうか。


論理を理解するためには、言葉をしっかりときき取って理解しないといけません。

そのためには、相手が何を言っているのかということがすべてであり、言語として表現されたものがすべてになります。

ところが、環境や関係性を理解しようとすると、言語で表現されたもの以外についての考察や推測が必要になってきます。


さらに理解を深めるためには、考察や推測を確認する必要が出てきます。

これを怠ると、思い込みというずれが生じてしまうことになるからです。


その領域のことを、行間と呼んだり「ことだま」と言ったりしているのだと思います。

したがって、欧米型言語の感覚における「きき方」は「聞く」「聴く」が中心になっていると思われます。

いわゆる、hearingとlisteningではないでしょうか。


これに対して、日本語の感覚による「きき方」は「効く」「訊く」が中心になっているのではないでしょうか。

「効く」は相手にどれだけ自分のことを理解してもらえているかを知ることであり、「訊く」は理解したと思われることを相手に確認する行為になります。


どちらが優れているかという捉え方ではありません。

言語が持っている傾向です。

母語として持っている言語の傾向に逆らうことは、ストレスを抱えることになります。

不自然さや違和感に素直に従って「きく」ことが、持っている母語を一番効果的に使う方法ではないでしょうか。


海外で生まれた理論による類型化の中でのパターン分けのための質問においては、Yes or Noの形式がたくさん存在します。

しかし、日本で行う場合には、YesとNoの間に「どちらでもない」とか「どちらかと言えばYes」といった項目が必要になってくるのです。

それがあることによって、分類そのものが曖昧にならざるを得ないのです。

それを避けるために、できるだけYes or Noで応えるように導かれたりもしますが、もはやそうなっては意味のないものとなってしまうでしょう。


環境が理解できて、その環境との関係性が理解できて初めて判断ができるのが日本語の感覚です。

環境は常に変化しています、いま理解した環境は次の瞬間には変わっているのです。

日本語の感覚はこれをとらえています。

だから絶対的な断定はしないのです。

環境と関係性がある程度理解できないと、固定的なことが言えないのです。


環境と相手や自己の関係性が理解できた者同士が、違憲主張をし合えることになります。

それは、単なる意見の主張ではなく、相手の意見が出てくる理由が分かったうえでの意見の対立となるのです。

言いくるめようとするのではなく、相手の意見が理解できるのですから、絶対的な否定もできないのです。


日本語感覚の「きき方」は、母語として日本語を持っている人であれば自然に身についていることです。

それを無理に欧米型言語の感覚にする必要はないのではないでしょうか。

素直に日本語感覚の「きき方」に従ってもいいと思います。