2015年2月27日金曜日

日本語の感覚に迫る(5)・・・自然と対話する

欧米型言語の感覚が最大の脅威の対象を人としていることに対して、日本語の感覚ではその対象を自然環境としていることについては何度も触れてきました。
(参照:日本語の感覚に迫る(1)

そのことがすべての文化の根源となっているわけですから、それぞれが持っている言語においてもその影響が見て取れるはずです。

そう思ってみてみると、今までのブログのなかで何度もそのことに触れていることが分かりました。

しかも、視点が違っているので現実的な特徴としてとらえており、脅威の対象との関係については近くまで行っても触れることはありませんでした。


全てのことが、ここで集約できてしまうようなのです。

つまりは、言語は最大の脅威に対していかに対話するかのために磨き上げられたものということができると思われます。

現代文明においては、人にとっての生命の脅威はさまざまな技術の開発によってかなり小さくなってきています。

しかし、その基盤にあるものはそれぞれの民族が共通して持っていた生命に対しての脅威であったことは想像に難くありません。

その脅威を少しでも取り除くために、文化が発展してきたことも疑う余地がないでしょう。


欧米型言語の対話の対象が人であり、日本語の対話の対象が自然であったということができるのではないでしょうか。

日本語の特徴として何度も取り上げてきた、自然の音を言葉として聞くことができる感覚や言葉以外の自然との対話を感じる「ことだま」の感覚などは、まさしく対話の対象が自然であったことの証ではないでしょうか。
(参照:気づかなかった日本語の特徴(3)日本語の向こうにあるモノ(3) など)

そのために、自然音である母音が基本となった言語となっており、具体的な言語を持たない自然の音を言葉として聞く感覚を持ち続けてきたと思われます。


欧米型言語の感覚では対話の対象が人となりますので、人に対して訴えることになります。

言葉としての音を聞き取り論理としての内容を聞き、相手に伝えるために言語が発達したのではないでしょうか。

そのために、自然音としての母音は言語として受け取る感覚をほとんど必要としなくなり、機械音と同じように雑音として受け取るようになりました。

人にしか発することができない人工音である子音が中心の音となっていたと思われます。


人との対話においては、共通の言語によって思いや考えを伝えたり理解したりすることが可能ですが、自然との対話においては伝えることよりも聞き取ることや感じることの方が重要になってきます。

論理を重視する欧米型の言語感覚に比べて、感情を重視する日本語の感覚の特徴はこんなところからも来ていると思われます。


日本語の持っている特徴である、自然の音を言葉として聞くことができる感覚は、同じように母音言語として存在しているハワイ・南太平洋のポリネシア語にも見ることができるとされています。
(参照:母音認識で異なる自然同化

日本語と同様に、母音の認識を中心として使われている言語です。

日本よりもずっと小さな島の集まった環境として、自然との共生が一段と厳しかったことが想像できると思われます。


自然を最大の脅威の対象とした言語には、予期せぬ激しい自然環境の変化にも適応していかなければならない感覚がありますので、自己主張がとても苦手な面があります。

強固な自己を持ってしまって自然と対峙したときには、絶対的に自然環境にはかなわないからです。

自己を主張することよりも、相手の変化をいち早く理解・察知して、自己を適応させていかなければならないからです。

日本語を母語として持っている者には、自然とこの感覚が備わっていると思われます。


それは、具体的な言語として現れるのではなく、継承されて来た日本語を使っていることによる感覚の中にあるものだと思われます。

それでも、表現の仕方や言葉の使い方などにその感覚が現れていることはあるのではないでしょうか。

変化をいち早く察知して自らを適応させて共生していこうとする感覚は、一面からは自主性がなく優柔不断で曖昧なものとして映ります。

反対に、日本語の感覚から見ると、欧米型言語の感覚は我儘であり強引で協調性がないと映ります。


日本語は、その感覚の基本となる言語としての音と文字を1500年を超えて継承してきています。

日本語を母語として持っているだけで、自然にこの感覚を持っていることになります。

母語として持っている感覚は、生涯消えることはありません。


欧米型言語の感覚で作り上げられた論理は、学校教育の中や自然科学の分野ではある種絶対的なものとして教え込まれます。

日本語の感覚は、教え込まれたものに対しては、不自然さや違和感を感じようとも環境として受け入れることができます。

そして、それに対して自分の方をアジャストしようとするのです。


適応するための能力には優れていますので、環境に合わせて教え込まれたものを取り出して対応することは得意なことです。

そこには、自己主張は必要ないからです。

ただし、自分の持っている感覚と受け入れたものが融合しているかどうかは分かりません。

不自然さや違和感を持ちながらも共生することが可能になっているからです。


いつまでも不自然さや違和感を抱えていることは、ストレスを発生させることになります。

適応しようとする自己の対応にも限界があります。

それでも、このように対応しなければならないということは決められていきますので、ストレスはたまっていくこととなります。


企業や組織の運営や日々の活動は、ほとんどが欧米型言語の感覚で論理的に成り立っています。

欧米型言語の感覚を持っている者にとっては、ストレスの対象とはならないのです。

日本人にとってのストレス社会と言われるのは、当たり前のことなのかもしれません。


日本語の持っている感覚を知ることによって、もっと楽に持っている力を発揮できる環境を選択することができるのではないでしょうか。

現代では、ある程度は自分で環境を選べるようになってきています。

自分で環境を作ることも可能になってきている場合すらあります。

常に変化し続ける環境に対して自己を適応させて共生していく日本語の感覚は、これからますます重要なものとなっていくと思われます。

しっかりと意識していきたいですね。



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