2015年10月16日金曜日

『古事記』も悩んだ日本語表記

『古事記』の原本が残っているわけではありません。

その写本と思われるものが残っているだけです。

同年代と思われるその他の史料(出土品や木簡、中国の史料など)と比較することによって成立年代を推測しているのにほかなりません。


まさかこの『古事記』の序文に日本語を文字で表記することの難しさが書かれているとは思いもしませんでした。

正確な年代は特定されていませんが、『古事記』の成立は平城京の成立(710年)の直後の数年のうちではないかと思われています。

この序には和銅五年正月とありますのでそれを信じれば712年ということになります。

遣隋使の始まりが600年頃であり630年頃からは遣唐使が盛んになっていたころです。

唐の都であった長安や北魏の洛陽城を模して作られたのが平城京と言われています。

漢語に対する馴染みも浸透してきている頃ということができると思います。


このころには帰化人を初めとする人を含めた文化の交流がかなりなされていたと思われます。

文字を持たない「古代やまとことば」で生活をしていた環境に、圧倒的な文明が漢語という体系だった文字を持った言語を伴ってやってきたのです。

漢語同士のコミュニケーションもかなりあったのではないでしょうか。

その中で「悉曇学」として漢語の音を利用した翻訳の経験を持つ帰化人たちの技術を利用した「古代やまとことば」を表記するための文字の模索が行なわれていたのではないでしょうか。
(参照:「悉曇学」と日本語


『古事記』の成立は、「古代やまとことば」を漢語を利用して表記するための技術がそれなりに広まってきたことによって可能になったものではないでしょうか。

『古事記』の表記は、その時点での日本語表記の集大成であったと思われます。

その『古事記』の序は、おそらくは筆者と言われる太安万侶によって書かれたと思われます。

そこには、漢語を利用して「古代やまとことば」(倭語)を表記することの難しさが書かれているのです。


その中には、現代の私たちにとっても見慣れた文字がいくつもあります。

その中の象徴的な文字(言葉)として漢語を利用して表記するときの「音」と「訓」があるのです。

『古事記』が書かれたときにすでに漢語の「音」と「訓」を利用して「古代やまとことば」を表記する試みが行なわれていたことになります。


こんなことが突然起こるわけはありません。

初めて漢語に触れて以来、文字を持たない原始日本語である「古代やまとことば」を表記するための文字の模索が延々と続けられてきたことがうかがえます。

『古事記』の序の一部を記しておきます。



字として表すことの難しさを嘆いている部分になります。

全てを(字)訓で書き表したのでは十分に意味を伝えきれない、かといって(字)音ばかりを連ねればさらに文章が長いものになって冗漫となってしまうと言っています。

そのために安万侶は言葉(一句)を表記する場合に、漢語を音字として使用すること(音)と意字として使用すること(訓)の両方を併用して使いました。

それでも、ある事柄を書く場合にはまず第一に言葉の意味を重んじて、表意的な方法(訓)を用いました。


冒頭近くにある文において、音と訓の使い方を見ることができると思います。



最初の次にから始まる一節目はすべて訓によって書かれています。

二節目になると、一音一文字の音による表記となっているのが分かるのではないでしょうか。

次の赤い部分の神様の名前についても一音一文字の音の利用によって表記されていますが、同じ神様の名前であってもその次の名前(天之常立)については訓を利用して表記されているのです。


「仮名」が成り立つためには、すべての言葉が一音一文字で書かれることが必要になります。

更に、その音に対して使われる文字の種類が限定されていくことによって初めて「仮名」の姿が見えてくることになるのではないでしょうか。


『古事記』の試みは音として持っていた「古代やまとことば」を漢語使って書き表してみる公式の試みであったのではないでしょうか。

それまでは漢語で書かれたものを「古代やまとことば」に翻訳する試みがずっとなされていたと思われます。

それは漢語の意図するところをいかに「古代やまとことば」に置き換えるかという模索でした。

いわゆる漢語の読み下しという行為であり、漢語で書かれた文字に対して「古代やまとことば」として適した言葉を充てるという訓読みを作ってきたということではないでしょうか。


太安万侶が試みた訓読みを利用した漢語による表記は、その文字と訓読みとしての「古代やまとことば」が定着してなければ不可能なことだったと思われます。

そして、意味は分からなくとも漢語の音は文字によって理解できるという状態が出来上がっていないと、他の言葉を表記するための文字として使用することは出来ないと思われます。

『古事記』が書かれるまでの間に漢語についてのかなりの修練がなされていたことを想像させるものだと思われます。


訓は漢語の持っている文字としての成り立ちや意味を利用したものとなります。

漢語を構成している漢字が文字としての意味を持っている表意文字だったから可能なことだったと思われます。

一方、一音一文字としての表現のためには、文字が意味を持っていることが邪魔になります。

漢字の持っている表音としての機能だけを利用することになります。


両方を使って表記された「古代やまとことば」は、たとえ「ことば」を分かっていたとしても書かれた文字と「ことば」が簡単には結び付かないものであったと思われます。

書かれたものだけを見たら訓で読んだらよいのか音で読んだらよいのかの規則性が見つけられないからです。


当時とほとんど同じ漢字を使って同じ音を使っている現代の私たちが、『古事記』をすんなり読んで理解できないのはこのことがあるからです。

仮に音として読めたとしても、読めた「ことば」が存在していたかどうかが分からないこともありますが、音としてどのように読むのか(音か訓か)を決める基準が見当たらないことが読解を難しくしていることだと思います。


『古事記』は「古代やまとことば」を文字として表現しようとした公的な初めての試みとして捉えることができるのではないでしょうか。

じっくりお付き合いをしてみたいものですね。