2016年5月20日金曜日

「カテゴリー」で気づいたこと

最近「カテゴリー」という言葉をよく使って言います。

本来のこのブログの主旨である「現代やまとことば」で日本語を使いこなすことからするとカタカナ表記での外来語は使いたくないところなのですが、今のところわたしの描いている「カテゴリー」の概念を上手く表現できる日本語が見当たらないのです。

つまりは、人に対して自分が持っている「カテゴリー」の概念をうまく日本語で説明できないということでもあります。


もちろん「カテゴリー」という言葉は英語の授業でも出てきましたし様々な場面で触れてきたものです。

しかし、いざ表現してみると抽象的でボヤっとしたイメージしか持っていなかったことが改めて確認できました。

できるだけ正確に日本語の置き換えをしようとすると「範疇」という言葉が選択され、英語の単語を覚える時にも"category=範疇"として固定されてきました。

そもそも「範疇」(はんちゅう)という言葉も漢字も読みかたも"category"に出会って初めて知ったものでした。


つまりは自分の中では"category=範疇"は機械的に英語と日本語の置き換えをするための単語同士であり、そこにおける日本語の扱いは母語としての感覚の伴った扱いにはなっていません。

単なる言語間の訳語として存在しているだけであり、それは英語とロシア語の置き換えにおける言語の扱いと何ら変わりがないことが分かったのです。

言い換えれば日本語として置き換えている「範疇」という言葉が自分のなかで日本語の感覚としての「ことば」にはなっていない、表面的な言語の形としての日本語でしかない母語の感覚からは程遠いものだと分かりました。

簡単に言ってしまえば「範疇」は自分のなかで意味のはっきりした日常的に使いこなせる言葉とはなっていないのです。

人に対して日本語の日常的な基本語で自分の使っている「範疇」の意味について説明できるようになっていないのです。

「範疇って」の画像検索結果

あらためて「カテゴリー」という言葉を意識させられたのが今井むつみ氏の「ことばと思考」という著作に出会ってからです。

「現代やまとことば」を常に意識している私にとっては「ことば」というひらがな表記はとても気になる表現になります。

言語と思考について深くしかも日常的な例を多く提示ながら論じている名著だと思います。


決して「カテゴリー」について書かれている本ではありませんが、この本で使われている「カテゴリー」は"category"でもなければ"範疇"でもない、日本語としての「カテゴリー」なのです。

その説明についてはご本人も苦労されている跡がうかがえるものとなっていますが、「カテゴリー」としか言いようのないものとなっており読み進むにつれてその概念がなんとなく分かるようになっています。


英語が母語ではない私たちがいくら"category"について感覚的に理解しようとしても彼らと同じ理解をすることは不可能です。

"category"が日本に入ってきたときにその概念を伝えるための適切な基本語を日本語は持っていなかったのです。

難しい漢字や新しい言葉を与えることがたくさん行なわれたのが明治期以降ですが、その時に日常的に使われている言葉を与えられなかった外国語は彼らの持つ感覚とは微妙に違ったものを言葉として持っていくことになりました。

一部の使い方や意味に日本語に合致するものがあれば代表としてその言葉を訳語として与えられてしまったりもしました。


"right"と"権利"、"liberty"と"自由"、"critical"と"批判的"など根本的に感覚的な違いを持ったまま定着してしまった言葉がたくさん存在しています。

その違いに気がついた人たちはいつの間にか元の感覚に近い表現をする場合に「ライト」「リバティ」「クリティカル」といったカタカナによる表記のほうが効果的であることが分かってきたのです。

そして、表記によるカタカナの効果は同じように話し言葉としてどれだけ英語に近い音(発音)で伝えるかで元の英語の感覚に近づけることができることも分かってきました。


母語として英語を持っていない私たちにとってはどんなに英語のネイティブの発音を聞いてもその感覚を理解することは不可能です。

そのかわり日常的に使っている日本語とは違うんだなという感覚を持つことは可能です。

これは、表記としてのカタカナにも当てはまることになります。


"category=範疇"が染みついている日本人は大多数になると思います。

そんな人であっても「カテゴリー」と表記されたものを見ればなんとなく「範疇」ではないんだなと感じることになるのではないでしょうか。

母語として日本語を持っている私たちは表記文字の違いに対してはとても敏感です。


日常的にひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットに親しんでいる私たちは同じ言葉に対して日常的に接している文字と異なったものに出会うと注意をひかれることになります。

そこに不自然さを感じることになるからです。

その結果、単に漢字が書けなかったり忘れていたりしたために仮名が使われていると思うとがっかりすることになります。

その不自然さに意図があるのではないかと感じているからになります。

「なんか変」の画像検索結果

全く同じ意味で使われているのに表記文字が違っていると読んで理解することが難しくなりますしとても面倒なことになります。

不自然さに対してはどうしてもその理由を求める活動をしてしまうからだと思われます。

言葉によっては無理やり充てられた漢字で表記するよりもカタカナでの表記の方が相応しいものがたくさんあります。

それは決して外来語の本意の感覚を表すものとはなりませんが、少なくとも日本語としてのおかしな言葉よりは実際の運用にあっているからではないでしょうか。


典型的な言葉に「アイデア」があります。

"idea"でもなければ"発想"でもない日本語としてすっかり定着している言葉となっています。

日本語の「アイデア」としてカタカナ表記されることが日常的となっている一種の基本語となっていると思われます。

「アイデア」という言葉を聞いて単なる"発想"をイメージする人はほとんどいないのではないでしょうか。

「アイデア」という言葉や表記の方が不自然さを感じなくて済むところまで来ているからだと思われます。


日常的な自然さを定義して感じさせることは大変難しいことになります。

自然さはそのままでは意識することができない感覚的なものだからです。

そこに不自然さがあってこそ初めて意識できるのが自然さではないでしょうか。

全てのことが自然に流れていたら全く意識することなく流れていくのではないでしょうか。


もちろん人によって不自然さを感じる内容や程度は異なるのでしょうが、それは同じ言語を母語として持っていることによってかなり共通性があると思われます。

持っている母語が異なれば不自然さを感じる対象も程度もかなり広範囲になっていることでしょう。

それは長い歴史文化を経験して作り上げられている言語であり、その言語によって感覚が作られている以上は当然のことでもあると言えます。


同じ言語を母語として持つ人たちの間でも、一人ひとりの母語は少しずつ違ったものとなっています。

母語が母親からの伝承言語であり幼児期の環境で出来上がっていく以上は、正確に言えば全く同じ母語を持った人は存在しないことになります。

したがって同じように日本語を母語として持つ人の間においても不自然さを感じる対象は微妙に違っていることになります。

また言語の感覚は経験によって上書きされていきますので変化していくものでもあります。


それでも日本語を母語として持った人に共通的に存在する感覚というものがあります。

それは歴史文化的に共通して変化してきた言語を継承してきていることによって持っている基本的なものだと思われます。

とくにカタカナ表記の役割は近年大きく変わってきているものとなっています。


漢語を読み下すための補助的な文字として生まれたカタカナは、日常口語を表すためのひらがなとは異なった役割を担ってきました。

生まれてから役割のほとんど変わっていないひらがなに比べてカタカナは明治期以降に大きな役割が加わりました。

日本語にうまく訳すことができない外来語を音で表すための文字として使用されたのです。


現代ではカタカナ言葉は漢字やひらがな言葉とは違った感覚を持った言葉として認識されるようになっています。

日常的な表記から見たら不自然なものと映りますので日本語として理解するためのには説明が必要な言葉でもあります。

日本語の持っている感覚として理解するためには日常的な日本語(基本語)で説明をしなければならない言葉でもあります。

「カタカナ言葉」の画像検索結果

それでも一部の言葉は「アイデア」のように日本語として定着して独り歩きをしているものも出てきていると思います。

「カテゴリー」はまだまだ説明が必要な言葉です。

何とか基本語で説明できるようにしておきたいものです。

もちろん自分が「カテゴリー」に対して持たせている内容を理解してもらうためにも絶対に必要なことでもあります。


今回は言葉としての「カテゴリー」で気づいたことに触れてみました。

次回は、この「カテゴリー」が発想や理論形成において大きな役割を果たしていることについて触れてみたいと思います。


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